「石川や 浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」 という歌が、ほんとうにかの大盗賊 石川五右衛門の辞世の句であるかどうかは分からないが、この句をもじれば、「世に争論の種は尽きまじ」 ということが言える。
たしかに、そのとおりで、人間はいつの時代にもどこの世界でも、言い争いを好むものであり、そのような例は、古今東西、宗教や政治、哲学や思想、学問などの話から、遺産相続や男女の仲の話まで、枚挙に暇がないくらいである。
たとえば、そういった争論が極端に先鋭化すると、ときには言葉のかわりに石ころや拳骨がとびかい、あげくのはてには血の雨が降ったりといったこともある。さすがに、これは困ったものである。そのような経験、とりわけ近世の激しい宗教的対立が悲惨な結果を生んだことの反省から生れたものが、いわゆる 「寛容」 という考え方である。
むろん、それは悪いことではない。だが、このような 「寛容」 という態度が成立するのは、実はそのような 「対立」 などはもはや重大な問題ではないという了解が、お互いの間に存在しているからである。このことは、宗教を例にして考えればよく分かることで、「宗教的寛容」 が一般に成立するのは、すでに宗教がその社会におけるもっとも重大な関心事ではなくなっているからこそなのである。
さて、こういう 「対立」 の先鋭化を嫌う人たちによって、しばしば持ち出されるのが、「価値観の多様性」 という言葉である。
なるほど、人によって 「価値観」 というものは確かに多様である。世の中には、巨人ファンもいれば阪神ファンもいる、もちろん中日のファンやヤクルトのファンもいるだろう。いや、そもそも野球になんか関心がない、という人もいるだろう。そういう 「価値観」 というものは、まさに人それぞれなのであって、いやいや、読売巨人だけが唯一絶対の存在だ、などと主張する人はいないだろう。
だが、「価値観」 というものは、そもそも、たんなる趣味や嗜好だけに関わる問題ではない。いくら 「価値観の多様性」 を擁護する人であっても、「有色人種を差別する価値観」 や 「意味もなく他人に暴力を振るう価値観」、あるいは 「価値観の多様性を否定する価値観」 まで認めはしないだろう。
また、1+1=3 というような、明らかな計算間違いを犯した人が、その誤りを指摘してくれた人に対して、「いいじゃないか、これがおれの価値観なのだから」 などと言い返したりすれば、笑い者になるのは必定である。
真理を発見する方法としての 「対話」を重んじた、ソクラテスのことを持ち出すまでもなく、人は自分だけではなかなかその誤りに気付かないものであり、しばしば他人との対話を通じて、自己の誤りに気付いたり、新たな発見をしたりするものである。そして、「批判」 とは、本来そのような 「対話」 のきっかけとなるもののはずである。
むろん、ひとから自分の誤りを指摘されることは、けっして気分のいいものではない。それは、偉い学者さんなどでも同じである。生徒から計算間違いなどを指摘されると、むきになって言い繕ったり、ごまかそうとする教師なども、世の中には珍しくない。
しかし、たとえ一時的に気分を害したとしても、それによって最終的に自分の過ちに気付かされたとすれば、批判者に対してはむしろ感謝すべきことだろう。成長とは、本来そういうものである。批判などするとお互いに心が傷つくから、互いの 「価値観」 を尊重して、ここはひとつ穏便になどというのは、少なくとも大のおとなが言うべきことではない。
「価値観の多様性」 ということは、たしかに認められるべきことであり、一概に否定されるべきものではない。しかしながら、すべての価値観がみな同様に相対的なわけではないし、互いにばらばらに存在しているわけでもない。もし、そうだとすれば、そもそも人と人の間には、結局 「対話」 など不要だし、成立しえないのというのと同じである。
たしかに、この言葉は、他人との対話を拒否して、自分の誤りを合理化したり、相手の批判を無視し、封殺するための口実とするのにも役立つ便利な言葉であり、実際にそのように使われている例も、しばしば見受けられる。つまり、「これはおれの価値観なのだから他人は口を出すな」 というわけだ。
だが、「価値観の尊重」 ということを本気で言うのであれば、自分の価値観のみに立てこもるのではなく、批判者の価値観をも尊重して、まずはその言葉にも率直に耳を傾けるというのでなければ、なんの意味もないのではないだろうか。
参考サイト: 「多様な価値観の尊重」 が苦手
追記:
批判方法の巧拙を問題にする論理は、結局、自分の意見を明確に述べられない人は、批判などせずに黙っていろということと同じではないのか。
批判された者が批判者に対していっさい耳を貸さず罵倒で応えるというのは、完全なルール違反行為である。
そのような 「違反行為」 は、批判した側にも問題があったというようなことで相殺されるものではない。
ならば、どちらに非があるのかは、充分に明らかなはずだ。