竹内好が訳した 『魯迅評論集』(岩波文庫) に、こんな短い文章があった。
A きみたちみんなで批評してくれ。Bのやつ、無法至極にもぼくの上衣を剥ぎ取ったんだ。
B Aは上衣なしのほうが格好いいからさ。ぼくは親切心からしてやったんだぜ。そうでなかったら、手間ひまかけて剥いでなんかやるものか。
C いまや東北四省が失われたというのに、なんたるざまだ、じぶんの上衣のことばかり言い立てるとは。この利己主義者め!この豚め!
C夫人 あの人、Bさんが合作のいい仲間だってこと、ちっとも考えてないのね。でくの棒!
さて、魯迅はこんなことも言っている。
予言者、すなわち先覚者は、つねに故国に容れられず、また同時代人からも迫害を受ける。大人物もつねにそうだ。彼が人々から尊敬され、礼賛されるときは、かならず死んでいるか、沈黙しているか、それとも眼前にいないかである。
要するに、問いただすわけにいかぬ、という点がつけ目だ。
もしも孔子、釈迦、イエス・キリストがまだ生きていたら、その教徒たちはあわてずにいられぬだろう。彼らの行為にたいして、教主先生がどんなに慨嘆するか、分かったものでない。
それゆえ、もし生きていれば、迫害するほかはない。 偉大な人物が化石になり、人々がかれを偉人と称するときが来れば、かれはすでに傀儡(かいらい)に変じているのだ。
ある種の人々のいう偉大と渺小(びょうしょう)とは、自分たちがその人を利用する際の効果の大小を意味する。
『カラマーゾフの兄弟』 の中の、異端者狩りを職とする大審問官の前にキリストが再臨する話は有名だが、ここで魯迅が書いていることは、彼自身の死後の運命を予言しているようにも読める。
魯迅の生年は1881年だから、かりに結核で倒れなくても 「文革」 の時代までは生きられなかっただろうが、生きていればきっと、無知で幼く、素朴で疑うことを知らない紅衛兵たちに、「団結を破壊する分裂主義者」 などと言われて、つるしあげられていたことだろう。
私の経験によれば、表面だけ 「革命」 面をしていて、そのくせ軽々しく他人をやれ 「裏切者」 やれ 「反革命」 やれ 「トロツキイ派」 やれ 「漢奸」 などと中傷するものは、だいたいまともな人間ではないからである。
彼らは巧妙に革命的民族の力を絞め殺し、革命的大衆の利益を損ない、もっぱら革命を利用して私利を図るだけだからである。