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カテゴリ:思想・理論
17世紀オランダの哲学者であったスピノザという人は、人間の 「自由」 というものを徹底的に否認したそうで、人間が自分の意志で行動しているというのならば、「宙を飛んでいる石だって、意識を持っていれば、いま、自分は自分の自由意志で飛んでいると思うだろう」 などと言ったそうである。 しかし、そのような彼でも、生涯にただ一度だけ、イギリス・フランスとの戦争の中で、友人であった有力な政治家が興奮した暴徒らに殺されたときは、激高のあまり、自分の身の危険も顧みずに、 「汝ら野蛮人の中でももっとも陋劣なる者ども」 という暴徒らを激烈に非難する文書を、その殺害現場に張り出すという無謀な行為に出ようとしたという。 「論理的」 であることを大事にしようとする人は、しばしば周囲から、「優しさ」 や 「共感」、「寛容」 に欠けた、冷たく傲慢な人間だというふうに見られがちだ。だが、そこでそのような 「論理」 に対置される 「共感」 とは、多くの場合、金太郎あめのように、自分や自分たちと同じ顔をした者どうしの狭い輪の中での 「共感」 にすぎないように見える。 だが、世の中というものは、けして優しさを売りにしている人だけが優しいわけではないし、繊細さを顕わにしている人だけが繊細なわけでもない。ただ、その違いは、自分の言葉や行動に対する自覚=自意識の有無と、安きに流れること、低きに流れることを拒否して自分を律しようとする態度があるかどうかにある。 優しさを売りにしているサイトに人気が集まるのは、今の世の中、それだけ 「優しさ」 に飢え、「優しさ」 を求めている人が多いことの表れなのだろう。つまり、そこには 凸 と 凹 の関係、言い換えれば需要と供給の関係があるわけだ。しかし、そのような誰にでも分かる程度の 「優しさ」 や 「共感」 など、たいていは、たかだか半径3メートルの優しさにすぎない。 カメのゲンタ君の飼い主さんが言うように、人は「むかついた」とも「腹が立った」とも言わずに、怒っている時がある。「悲しい」とも「傷ついた」とも言わずに、悲しんでいる時がある。 だからこそ、だいじなのは、「分かりやすい」言葉以外も読み解く努力をする ということなのだ。 であれば、「他者への寛容」 ということを説く人は、自分が理解できない 「行動」 をする人に出会ったのならば、それを自分のありあわせの 「カテゴリー」 に押し込めて、安直な言葉で批評する前に、世の中には自分にはなかなか理解できない人もいるのだという事実をまず認め、そのうえで、その人がどういう 「思考」 と 「行動原理」 によって行動しているのか、じっくりと自分の頭で考えてみたほうがいい。(参照) それに、まず自分の頭でじっくり考えようともせずに、ただその場で思いついた程度の質問を次々と相手に浴びせたり、同じことを何度も何度も蒸し返したりするのは、けっして相手との 「対話」 を求める姿勢とは言わない。(参照) どこにでも転がっているにすぎないような自分の物指しと、自分の身の丈に合わせた甲羅だけでしか他人を判断できないのでは、「人との違いを容認する寛容さ」 だとか「他人へのやさしさ」 などというご立派な看板が泣くというものだ。 ところで、書き忘れたが、今日はメーデーなのであった。 立て、万国の労働者 ! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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