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カテゴリ:ネット論
いわゆる左派・リベラル系などの政治批判をする人たちの間でしばしば言われるのが、「権力批判はいいが、一般市民に対する批判はよくない」 とか、「権力を批判する者どうしでの内輪もめはよくない」 といった言葉である。 「批判」 とはなにか、ということもそもそもの問題なのではあるが(批判とは、必ずしも相手を敵とみなして攻撃することを意味するわけではない)、このような言葉や発想は、いったいなにを意味するのだろうか。 であれば、「権力」 や 「権力者」 ばかりを批判することで、すべての政治問題や社会問題が解決するはずはない。ときにはそのような 「権力」 を支えている社会内部にまで、批判の矛先を向けることも必要になるだろう。政治というものは、つねに社会の反映なのである。 「権力」 を支持している人らは、ただ 「権力者」 に騙されているだけであり、したがって「権力」 の横暴を暴き出しさえすれば、彼らも目が覚めるだろうというような単純な話ですむのなら、誰も苦労はしない。「政治家のレベルは、その国民のレベルに比例する」 という言葉の意味は、そういうことである。 また、いま現に 「権力批判」 をしている者らの間にも、さまざまな立場や考えの違いはあるだろう。ただ 「権力批判」 をすること自体が目的なのではなく、その先の目標まで見据えるならば、そのような考えの違う者どうしで互いに意見を交換しあい、あるいは批判しあう必要があるのも、これまた当然の話である。 そもそも、現代の 「民主主義国家」 においては、ある意味 「権力」 を批判するぐらい簡単なことはない。言論の自由がいちおう保障された 「民主主義国家」 においては、誰もが政治について語ることができるし、「権力」 を批判することもできる。 しかし、当然のことながら、「権力」 の側はネット上などにあふれる様々な批判などに、いちいち反論してきたりはしない。「権力者」 も 「政治家」 も、それほど暇ではない。だから、誰もが 「権力」 に対しては安心して批判することができる。なにしろ相手から逐一反論されたり、自分の批判の弱点を突いてこられたりするおそれがないのだから。 ネット上にごまんとある、様々な 「権力」 批判や 「政治」 批判が、しばしば反抗期の子供による、親への甘ったれた反抗に似ているのはそのせいである。 批判した相手からの 「反論」 や、第三者からの 「批判」 といったことへの覚悟もなしに、ただ決まりきった言葉だけで 「権力」 なるものを批判したところで、そんな言論にいったいどれだけの力があるだろうか。そのような 「権力批判」 などは、せいぜい 「床屋政談」 にしかならないだろう。 もっとも、そのような人たちのやりたいことが、ただただ 「権力者」 や 「政治家」 らの 「不埒な悪行三昧」 を口を極めて罵倒することで、おのれが抱える様々な不平や不満を解消したいというだけであるならば、それはそれで構わない。 しかし、言うまでもないことだが、そのようないささか安易で無責任な 「権力批判」 などからは、しょせんどのような建設的成果も生まれはしないだろう。 そもそも、せっかくの誰もに開かれた広いネット空間なのである。そこで、ただ荒野に呼ばわるがごとき、壁に向かって叫ぶがごとき、なんの応答も返ってこない一方向的な言論しかしないというのでは、あまりにもったいないし、無意味ではないだろうか。 たしかに 「権力」 や公的性格の高い個人、団体に対する場合と、私人に対する場合とでは、「批判」 の仕方や姿勢に違いをつけなければならないときもあるだろう。また、個人個人が、それぞれに自分なりの方針を立てることは自由である。 それに誰しも、誰かに憎まれることになったり、おかしな人に絡まれたり、粘着されることになったりするような、ややこしくて面倒なことになど、巻き込まれたくはないのも、これまた当然である。 だが、であればこそ、そのような人に憎まれてしまうことも、面倒なことに巻き込まれることも意に介さずに、間違った言論やおかしな風潮に対して決然と批判を続ける人がいるとすれば、そのような人こそまさに貴重な存在というべきだろう。(参照1,2) もしも、「権力は批判するが一般市民は批判しない」 ということが、政治や社会批判を行う場合にとるべき正しい姿勢であり、普遍的な原則であると考えている人がいるとしたら、それこそがとんでもない間違いであり、大きな勘違いなのだ。 いささか 「正論」 ぽいことを言えば、そのような 「一般市民」 どうしでの、「おまえ、それはちがうだろ」、「なに、言ってんだ。この馬鹿やろう」(ちょっと口は悪いが)というような、活き活きとしたお互いの批判や論争、議論、言い合いなどがなくて、いったいどうして草の根からの民主主義というものが成立し定着するというのだろうか。 「議を言うな」 という昔の薩摩の言葉ではないが、内部からであれ、外部からであれ、他者の言論に対して批判を加えることそのものを 「内輪もめ」 だの 「内ゲバ」 だのと呼んでタブー視するような雰囲気や、他者からの批判をすべて自分への個人攻撃とみなしていっさい耳を貸さないというような狭量な精神が、本来の民主主義の理念とはまったく相容れないことぐらいは自明のはずである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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