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カテゴリ:ネット論
言うまでもなく、このタイトルは今は亡き寺山修司の書名からぱくったものである。調べてみたら、俳人で歌人で、詩人で戯曲作家で、映画作家でエッセイストで、おまけに競馬評論家で東北弁の達人でもあった寺山が亡くなってから、すでに四半世紀が経っていた。 まことに、「月日は百代の過客」 であり、「歳月人を待たず」 であり、「光陰矢のごとし」 であり、「時は金なり」 なのである。んっ、最後だけちょっと違うかも。 もっとも、寺山の本で有名になったこの言葉も、もとはアンドレ・ジイドの 『地の糧』 という本 (訳者はなんと、今東光の弟で、初代文化庁長官を務めた今日出海である) にある言葉であり、腎臓を病んで大学を退学して送った長い入院の末にやっと病気が快方に向かったころの、「ブッキッシュな生活から遠ざかろうと思いはじめた」 という、寺山の気持ちを表したものだそうだ。 たしかに、入院生活というものは退屈なもので、本でも読んでいる以外にやることがない。それが1月や2月ならともかく、20歳から23歳まで3年間も続いたというのだから、寺山の気持ちも良く分かる (ような気がする)。 ところで、ネット上に様々な 「一般大衆」 のブログとかが溢れるようになったのはいつ頃からなのだろう。新参者の小生にはよく分からないが、ときどき訪問する人たちのブログを見ると、たいていの人は2年とか3年、長くてもせいぜい4年とか5年ぐらいのようだ。 学者でもタレントでもない一般の人々にとっては、ネットは基本的に匿名の世界である。そこでは、被ろうと思えばいくらでも偽の仮面を被ることができる。中には、自分は博士号を三つも四つも持っていて、おまけに数ヶ国語を読み書きできるなどと、あやしげな豪語をしている人もいるようだ。 たとえば、ただの 「床屋政談」 程度の記事を書いていて、現実政治に影響を与えられる、なにやら立派な 「政治活動」 をしているかのごとき気分になっている人。ネットのあちらこちらで繰り広げられる個々ばらばらな論争を、「○○○へ殴りこんだ×××」 みたいに、とても分かりやすく解説してくれる人。 たまたま、ある問題について何人かの意見が一致し、行動がシンクロしたというだけで、「一味」 だの 「徒党」 だのと、なにやら禍々しい 「陰謀」 が裏に存在しているかに妄想する人。そして、そのあげくに、○○○はどこそこの 「工作員」 だなどという虚偽をでっち上げ、隙を見てはあちらこちらに通報してまわっている 「陰謀家」 気取りのおかしな人とか。 むろん昔でも、作家だとか思想家だとかへの熱烈なファン意識が嵩じてからか、勝手な恋愛妄想にふけったり、ついには、「あの人の作品は本当は私が書いたもので、彼が私から盗んでいったものなのよ」 なんて、とんでもな妄想に走るような人もいたことはいた。(参照) しかし、こういう妄想の類は、ネットのおかげで誰もが顔を隠したまま、国内はおろか、海外在住の人らとも簡単に交信できるようになり、人と人とのリアルな距離感というものが消滅したために、なにやらイソップ童話に出てくる、お母さんガエルの破裂寸前のおなかのように膨らんでいく一方のように見える (むろんちゃんとした 「統計調査」 とかをやったわけではないから、ただの 「気がする」 である)。 かつての一般市民にとって、情報世界は、マスコミを除けば、隣近所や会社の同僚らとの付き合いのように、お互いに顔が見え手が届く身の周りの範囲に限られていた。しかし、ネットの世界はフラットであり、そこには、かの草薙少佐の名言ではないが、手触りのないバーチャルな情報空間が茫々と広がっている。 そこには、ナイーブで 「善意」 の人らの現実感を失わせ、頭の中でしだいに 「妄想」 を膨らませていくという魔物が住んでいるかのようだ。とりわけ、目の前でそういう 「妄想」 に捉われかけ、精神の安定を失いかけているような人を見かけたりすると、それがいったいどこの誰なのかも分からず、手の差し伸べようがないだけに、とても痛々しいものを感じる。 ようするに、ネットには様々な魑魅魍魎・妖怪変化の類が棲みついており、下手に足を踏み入れたら、もがけばもがくほどはまり込んでしまう、アリ地獄のような危険な罠があちこちに仕掛けてあるのだ。しかも、困ったことに、そういう危険地帯には 「危険、立ち入り禁止!」 といった立て札が立てられているわけでもない。 やっぱり、ネットに夢中になりすぎるのは、子供だけでなく大人にとってもよくない。バーチャルな世界での身体は、必然的にリアルな世界での身体より何倍にも膨らんでいくものであり、そこには 「現実感覚の喪失」 という危険性がつねに潜んでいる。 昔はわが家も亀のように遅く、おまけに通信料もかさむダイアルアップだったので、ネットに繋ぐ時間も比較的限られていたのだが、今は光を使った常時接続である。おかげで思う存分に 「ネット生活」 を楽しめるのだが、そこには思いもかけぬ落とし穴も待っているようだ。 自分で、「あっ、これはやばい」 と思ったら、PCのスイッチを切り、線も根元から引っこ抜いて、近くの海岸にでも行って、思いっきり大きな声で叫ぶのが一番である。誰かがブログを閉じたり、閉鎖を宣言したからといって、その人が死んだわけでも死ぬわけでもないし、それがその人の判断であるなら、いくら長年の熱烈なファンだろうと、他人はその人の判断を尊重して黙っているべきだ。 むろん、海が嫌いな人や、海が近くにないという人は、山に行ってもいいし、ジイドと寺山の最初の言葉どおりに、「町へ行こう」 でもいい。ただし、ディズニーランドはあまりお勧めしない。行ったことはないけど。 それから、「ネットを閉じよ、書を開こう」 でもいいだろう。ネット上にごまんと溢れる、「9.11陰謀説」 だの 「地震兵器」 だのといったあやしげな情報に踊らされるくらいなら、ネットなど閉じて、まともな本の一冊でも読んだほうが、はるかにましである。 えっ、お前が言うなって。いや、まったくそのとおり。 こうやって、いまネットで遊んでいる時間を減らして、かわりに読書にあてれば、山のようにたまっている買ったままの本も少しは減るはずなのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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