|
カテゴリ:ネット論
先日、ある場所で、ある人が発した 「私闘」 なる言葉について、黒猫亭と名乗る別の人から 「長文コメント」 による質問という 「長文テロ」 攻撃を受けてしまった。なので、やむをえずこちらも先方に匹敵する、総計10000字に達する長文レスでお返しをしたのである。まことに 「疲労困憊」 と 「徒労感」 でいっぱいの一日であった。 問題になった発言というのは、そもそも次のようなものである。 わたしは、個人ブログには、そのように社会を動かすほどの
そもそも、どこの誰とも徒党を組まず、いかなる組織や団体にも参加しないことを、長年のモットーにしてきた自分としては、別に問題にされたもとの発言があろうとなかろうと、自分があちこちでやる議論などについて、「私闘」 と表現することになんのためらいもない。 「私闘」 であればこそ、その戦いにおける責任はすべて自分が負わねばならない。「私闘」 なる言葉にこだわる人たちは、どうしてもそのへんの感覚が理解できないようだ。結局、そこに示されているのは、単語一つをとっても、その単語に対する感じ方や感覚はひととおりではない、というまことに単純な事実である。 たしかにこの広い世の中には、そのような責任感をそもそも持たない、でたらめな言いっぱなしの放言を趣味にしている人、根拠もない中傷や罵詈雑言の類をあちこちで振りまいている、胸の悪くなるような 「露悪趣味」 をお持ちの人とかも、いらっしゃるようだが、こちとら、そこまでは落ちぶれていない(つもり)。 聞くところによれば、論争になった相手の方たちは、「『書いてあること』 のみを読み、『書かれてはいないこと』 までは読み取らない」 ということを、文字による 「対話」 におけるモットーにしているらしい。 辞書に示された 「語義」 なるものは、そもそも言葉の定義などではない。日常語の意味は、辞書による定義によって生れるのではない。辞書での記述は、社会の中で多くの人々によって実際に使用されている様々な用例の中から事後的に抽出されたものであり、せいぜいのところ最も一般的な、いわば 「可もなく不可もなく」 といった程度の 「最大公約数」 的意味にすぎない。 三浦つとむ風に言えば、辞書に記載されている言葉などは、生きた現実の言葉ではなく、夏休みの宿題として提出する 「昆虫標本」 や、レストランのウィンドウに飾られた蝋で作った料理の見本のように、せいぜいのところ収集された言葉の見本であり、標本にすぎないのだ。 であるから、「『書いてあること』 のみを読み、『書かれてはいないこと』 までは読み取らない」 ということは、議論における最低限のルールではあるが、現実にはそう簡単なことではない。なぜなら、「書いてあること」 を読むという場合にも、すでに一つ一つの文脈や単語の意味について、なんらかの解釈を行うことが必要であり、要求されるからだ。 つまり、「『書いてあること』 のみを読み、『書かれてはいないこと』 までは読み取らない」 ということは、対話におけるルールであると同時に、「書いてあること」 についての質問やそれに対する回答など、相互の対話を通じてはじめて達成される目標でもある。 まことに、「対話」 というものは難しいものであり、ちょっとやそっとの 「共感」 などで実現できるものではないのだな、とまたまた痛感してしまったのだった。
追記: 「私闘」 なる言葉が一般に否定的なものとして使われ、またそのようなイメージがついてまわるのは、現代では通常この言葉が、政治家のような公人が、「公益」 を建前とし 「公益」 を隠れ蓑としながら、実は個人の私的利益追求のために行う争いを指すものとして使われているからだ。その限りでは、そのような争いが忌むべきものであることは言うまでもない。 そのように見ることは、ダム建設や空港建設などを名目にした国家による一方的な土地収用に抗議し抵抗した人々らのことを、社会全体の 「公共の利益」 に対して私的利害で盾突いたエゴイストとして非難することと同じである。 「封建時代」 や戦前の 「軍国主義」 時代ならいざ知らず、個人による自己の利益をかけた争いは、その利益が正当なものである限り、単なる私的な争いであっても、けっして忌むべきつまらぬ争いとして蔑視されるべきではない。 文脈も考えずに、ただ 「私闘」 なる言葉を聞いただけで眉をひそめるような人たちは、個人の私的領域を公的領域(共同的領域)よりも一段低いものとし、私的利害を 「公益」 よりも無条件で劣ったものとし、私的利害にもとづいた争いを無条件で忌むべきものとする、とうに黴の生えた 「滅私奉公的」 イデオロギーにいまだに侵食されているのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[ネット論] カテゴリの最新記事
|