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カテゴリ:ネット論

 先日、ある場所で、ある人が発した 「私闘」 なる言葉について、黒猫亭と名乗る別の人から 「長文コメント」 による質問という 「長文テロ」 攻撃を受けてしまった。なので、やむをえずこちらも先方に匹敵する、総計10000字に達する長文レスでお返しをしたのである。まことに 「疲労困憊」 と 「徒労感」 でいっぱいの一日であった。

 問題になった発言というのは、そもそも次のようなものである。

わたしは、個人ブログには、そのように社会を動かすほどの
影響力はないと思っていますので、むしろ、興味の合うかたと
お話するという、趣味を意識してサイトを作っています。
よそのブログとの論争なんて、その意味で、みんな「私闘」だと思っています


 これはまことにすっきりした文章である。国士気取りでなにやら 「天下国家」 を一人でしょった気になっている人や、「世のため、人のため」 とかいうご立派な看板を掲げるあまり、かんじんの自分の主体性や責任をどこかにおいてきたかのような人などより、はるかに個人としての 「覚悟」 を感じさせる文章である。

 こちらに 「長文テロ」 攻撃を仕掛けてきた人は、「お前の解釈は、発話者を弁護することを目的として、恣意的に行われた解釈だ」 みたいなことを仰っていたのだが、そんなことはない。そもそも、もともとの言葉を読んだときに、なにも違和感も抵抗感も感じなかったということが、すでにそのことを証明している。

 しかし、この言葉に違和感を感じる人も確かにいるようだ。そのことは理解できないわけではない。たしかに、「私闘」 なる言葉は一般には否定的な意味があり、否定的なイメージがともなう。

 しかし、上の文章を書いた人だって、そのくらいは百も承知のことだろう。それを承知で、ことさらに 「私闘」 なる言葉を使っているとしたら、当然、そこにはなんらかの肯定的意味が込められているととるのが、むしろ普通ではないだろうか。そのように解釈することが、はたして 「書かれてもいないことを読み取る行為」 だとか、「発話者を弁護するために行われた恣意的解釈」 ということになるだろうか。むしろ、そのように言う人は、言葉や文章に対する 「感性」 や 「想像力」 の重要性というものを、あまりに無視してはいないだろうか。

 たしかに特定の相手を対象とした論争文とかであれば、意味を可能な限り一義的に確定できる、曖昧さのない文章を書くことが求められるだろう。そのような必要性についても、否定はしない。しかし、相手の意図を推測しながら文を読むということも、やはり現実の 「対話」 においては必要ではないだろうか。そうでなければ、「対話」 などとてもまどろっこしくてやってられない。

 むろん、それは、勝手に自分の主観を投影することではなく、文章全体から読み取った発話者の意図にそって、個々の言葉の意味を推測するということだ。言葉の解釈などまったく無用な、すべての言葉の意味が一義的に確定される文章など、結局は 「これはペンです」「あれは鉛筆です」 といった、ほとんど無意味で単純な文に限られる。複雑な構成によって一定の主張を行う文章を、つねに一義的に意味が確定されるように書くことは、目標とすべきではあっても、現実にはほとんど不可能なことである。

 そもそも、どこの誰とも徒党を組まず、いかなる組織や団体にも参加しないことを、長年のモットーにしてきた自分としては、別に問題にされたもとの発言があろうとなかろうと、自分があちこちでやる議論などについて、「私闘」 と表現することになんのためらいもない。

 まさに、「私闘」 でけっこう、「私闘」 でなにが悪いと、こっちのほうから積極的に言いたいくらいである。

 「私闘」 であればこそ、その戦いにおける責任はすべて自分が負わねばならない。「私闘」 なる言葉にこだわる人たちは、どうしてもそのへんの感覚が理解できないようだ。結局、そこに示されているのは、単語一つをとっても、その単語に対する感じ方や感覚はひととおりではない、というまことに単純な事実である。

 たとえば、この黒猫亭という方は 「私闘として主張された 『正しさ』 など他の誰にとっても意味はない」 と仰るのだが、そんなことはない。その責任を 「正義」 だの 「世のため人のため」 などというなにやらりっぱな理念に預けることが許されず、自分ひとりで負わねばならないからこそ、「私闘」 においては、自己の主張の正当性、論拠の正当性の一般性に細心の注意を払わなければならない。

 たしかにこの広い世の中には、そのような責任感をそもそも持たない、でたらめな言いっぱなしの放言を趣味にしている人、根拠もない中傷や罵詈雑言の類をあちこちで振りまいている、胸の悪くなるような 「露悪趣味」 をお持ちの人とかも、いらっしゃるようだが、こちとら、そこまでは落ちぶれていない(つもり)。

 聞くところによれば、論争になった相手の方たちは、「『書いてあること』 のみを読み、『書かれてはいないこと』 までは読み取らない」 ということを、文字による 「対話」 におけるモットーにしているらしい。

 まことに 「その言うや良し」 である。そのモットーに対しては、寸毫も異議を唱えるつもりはない。しかし、実際には 「書かれている」 単語一つをとっても、その意味には幅や揺らぎがあり、人によって言葉の受け取り方や感じ方は微妙に違い、またその言葉が使われている文脈によっても微妙に変化するものである。

 学術的に定義された言葉や概念ならともかく、普通に使用される言葉というものは、『広辞苑』 であれなんであれ、そのような辞書に示された 「語義」 にしたがって使われているわけではない。辞書に示された 「語義」 をいちいち参照しながら言葉を使っている人などは、少なくとも 「母語」 に関する限り、そうはいないだろう。

 辞書に示された 「語義」 なるものは、そもそも言葉の定義などではない。日常語の意味は、辞書による定義によって生れるのではない。辞書での記述は、社会の中で多くの人々によって実際に使用されている様々な用例の中から事後的に抽出されたものであり、せいぜいのところ最も一般的な、いわば 「可もなく不可もなく」 といった程度の 「最大公約数」 的意味にすぎない。

 三浦つとむ風に言えば、辞書に記載されている言葉などは、生きた現実の言葉ではなく、夏休みの宿題として提出する 「昆虫標本」 や、レストランのウィンドウに飾られた蝋で作った料理の見本のように、せいぜいのところ収集された言葉の見本であり、標本にすぎないのだ。

 であるから、「『書いてあること』 のみを読み、『書かれてはいないこと』 までは読み取らない」 ということは、議論における最低限のルールではあるが、現実にはそう簡単なことではない。なぜなら、「書いてあること」 を読むという場合にも、すでに一つ一つの文脈や単語の意味について、なんらかの解釈を行うことが必要であり、要求されるからだ。

 つまり、「『書いてあること』 のみを読み、『書かれてはいないこと』 までは読み取らない」 ということは、対話におけるルールであると同時に、「書いてあること」 についての質問やそれに対する回答など、相互の対話を通じてはじめて達成される目標でもある。

 まことに、「対話」 というものは難しいものであり、ちょっとやそっとの 「共感」 などで実現できるものではないのだな、とまたまた痛感してしまったのだった。

 

追記: 

 「私闘」 なる言葉が一般に否定的なものとして使われ、またそのようなイメージがついてまわるのは、現代では通常この言葉が、政治家のような公人が、「公益」 を建前とし 「公益」 を隠れ蓑としながら、実は個人の私的利益追求のために行う争いを指すものとして使われているからだ。その限りでは、そのような争いが忌むべきものであることは言うまでもない。

 しかし、公人でもない私人により、「公益」 などの看板を掲げずに、その人個人の利益のために行われる争いが、「公益」 追求を看板に掲げた争いよりも、一義的に低いものであるとか、忌むべき劣ったものであるとみなされるべきではない。

 そのように見ることは、ダム建設や空港建設などを名目にした国家による一方的な土地収用に抗議し抵抗した人々らのことを、社会全体の 「公共の利益」 に対して私的利害で盾突いたエゴイストとして非難することと同じである。

 「封建時代」 や戦前の 「軍国主義」 時代ならいざ知らず、個人による自己の利益をかけた争いは、その利益が正当なものである限り、単なる私的な争いであっても、けっして忌むべきつまらぬ争いとして蔑視されるべきではない。

 文脈も考えずに、ただ 「私闘」 なる言葉を聞いただけで眉をひそめるような人たちは、個人の私的領域を公的領域(共同的領域)よりも一段低いものとし、私的利害を 「公益」 よりも無条件で劣ったものとし、私的利害にもとづいた争いを無条件で忌むべきものとする、とうに黴の生えた 「滅私奉公的」 イデオロギーにいまだに侵食されているのではないだろうか。






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Last updated  2008.05.25 22:31:44
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