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カテゴリ:ネット論

 暑い! まだまだ五月だというのに、とにかく暑い。イギリスの詩人、エリオットは 「四月は最も残酷な季節だ」 とうたったが、日本ではやはり 「四月は最もやさしい季節」 のような気がする (『荒地』 の誤読だ、などという野暮なつっこみはなしでお願い)。

 ところで、「五月病」 なる言葉が人口に膾炙するようになったのは、いったいいつ頃からだろうか。これも、いささか記憶にない。自分が大学に入った30余年前にはすでにあったような気もするが、あまり定かではない。

 十年一昔という言葉があるが、まことにそのとおりで、テレビなどでときおり十年以上前の出来事などが話題になると、「えっ、あの話って、そんな昔のことだっけ」 みたいな、軽いショックに襲われることもしばしばである (「老化の始まりだ」 なんて言わないでね)。であるから、30年以上も前の話ということになると、まさに 「忘却の彼方」 のようなものである。

 しかし、そのような 「五月病」 というようなものを感じた覚えはたしかにある。入学して1月たち、講義もひととおり進むと、なんとなく失望感のようなものに襲われて (もっとも、最初からそれほど期待していたわけでもないが)、講義をサボっては、大学近辺に並ぶ古本屋をはしごしたり、キャンパスの芝生に寝転んでなにやら読みふけっていたものだ。つまりは 「青春」 真っ只中だったのである (なんだか恥ずかしい)。

 で、そのあげくに、純真な新入生を引っ掛けんものと虎視眈々と待ち構えていた邪悪なお兄さん・お姉さんにつかまり、とうとう4年で済むはずのところを5年かかって卒業する破目になったのであった。今頃謝っても遅いが、1年分の学費を余計に負担させた親には、まことに申し訳ないことをした。

 先日、いささかある人とバトルを演じた 「事象の地平線」 の主宰者であるapjさんは、ネットでのコミュニケーションを円滑に進めるための原則として、「書いてあることのみを読み、書かれていないことまでは読み取らない」 ということを重要視されている。

 「書かれていないことまでは勝手に読み取らない」 ということの重要性については、まったく同感である。それは、こちらの言葉で言えば、「過剰に主観を投影しない」 ということだ。ただ、いささかお互いの行き違いのようなものが生じたのには、おそらく 「書いてあること」 という言葉の理解に、多少の違いがあったからのように思う。

 「書いてあること」 というのは、多少屁理屈を言えば、パソコンのモニター上に並ぶただの虫のような黒い染みにしかすぎない。そこから意味を汲み取るには、それまでに蓄積してきた自己の 「言語体験」 にもとづいて、自分が有するそれぞれの言葉についての観念 (意味) と一つ一つ引き合わせ、さらには文脈を押さえ、文章全体の意味も押さえながら、書き手の意図を推測するという作業は欠かせない。

 そもそも、書き手と読み手の言語体験は、必ずしも同じではない。同じ言語体系に属する者どうしであっても、その言語体験は、年齢や地域、社会環境などによって様々である。その場合、辞書はたしかにお互いの 「共通理解」 を担保するうえでの貴重なツールではあるが、残念ながら、この世には完全な辞書などというものも存在しない。

 いささか話をはしょるが、結局すべての言葉は文脈に依存しているのであり、同じ言葉が場合によっては 「ほめ言葉」 にもなり、「嘲弄」 や 「見下し」 のための皮肉や反語としても機能する。それは日常、誰もが経験することだろう。皮肉でもなんでもない正直な言葉を、邪推して勝手に腹を立てるのは馬鹿馬鹿しいが、かといって、皮肉として言われた言葉を正直に受け取って喜ぶのも阿呆なことである。

 であるから、その意味においては、「読む」 という行為には、つねになんらかの 「解釈」 が必要なのである。文を読むとき、人は意識的であれ無意識的であれ、つねになんらかの 「解釈」 を行っているのであり、言葉の 「解釈」 をすべて禁止すれば、人は結局 「書いてあること」 すらまともに読み取れなくなるだろう。

 「読む」 ということは、言うまでもなく読み手の主観の作用である。「書いてあること」 を読むのにも、主観(主体)の働きかけは必要なのであり、空っぽの頭脳で 「文字づら」 ばかり眺めていては、その内容を理解することなど不可能である。人間の意識とは、ぼおっとしていても目の前のものを映し出す鏡のようなものではなく、程度の差異はあれ、主体的で指向的な意識作用の働きがなければ、そこにはなにも反映されはしない。

 つまり、文章を読むという行為には、そのような言葉の 「解釈」 が多かれ少なかれ必要である以上、「書いてあること」「書かれていないこと」 との間に厳密な線を引くことなど、現実には不可能だということでもある。

 文字だけによるコミュニケーションで、「書いてないことまで勝手に読むな!」 を原則とすることはもちろん正しい。しかし 「書かれていないこと」 まで読み取るという行為は、自分の読解力の低さを補うために行われることもある。また、多くの場合、人が無意識のうちに 「書かれてもいないこと」 を勝手に読み取るのには、それなりになんらかの根拠があるものでもある。

 であれば、そのような行為に陥らないようにするために必要なことは、自分の 「読解力」 を上げる努力をすると同時に、そのような 「過剰な主観の投影」 が発動される根拠となっている、自身が無意識のうちに抱えている様々な偏見や心理的バイアスなどを自覚すること以外にないだろう。

 どんな問題であれ、根本的な問題というものは、日々新たに再生産されている問題でもあって、一朝一夕に解決できるようなものではない。これまた当たり前の話であり、いささか身も蓋もない話ではあるが、そのような問題に対しては、万全の特効薬のようなものも存在しない。


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Last updated  2008.06.02 13:18:12
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