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カテゴリ:ネット論
先日、ある若いフリーの女性アナウンサーが自殺した。川田亜子というその名前を聞いても、たしかに聞いた覚えはあるが、顔はちょっと浮かばない、という程度であるから、とりたてて衝撃を受けたというわけではない。自動車内での練炭による自殺というのも、最近はなんだかよく聞くなあという程度のことである。
いかにも、いわゆる 「女性らしい」 感覚的な記述である。短い文章ではあるが、その中に本人の素直な感情が、なんの飾り気もなくナイーブににじみ出ていると言えばいいだろうか。 昨今はまさにネコも杓子もブロガー時代である。「一億総ブロガー」 というのは、いささか大げさだが、とにかく小中学生から高年齢者まで、いろいろな人がパソコンや携帯を使ってブログを書き、一般に公開している。むろん小生もその一人であり、時代の流行にちゃっかり便乗しているわけではあるが。 たしかに、上で引用したような 「飾り気のないナイーブな感情」 というものには、人の胸を打つものがある。だが、そのようなナイーブで、しかもいささかナルシスティックな感情の表出は、ときには多くの人が無意識のうちに抱えている 「匿名の悪意」 のようなものを刺激し、発動させることもある。実際、そのような例は、過去にもあちらこちらで見られる。 とりわけ、有名人が実名で公開しているブログは、多くの人の読むところであり、また本人がばっちり特定できるだけに、そのような 「悪意」 (それはときには、「社会正義」 であるかのごとき仮面を被っていることもある) の標的になりやすいように思える。 過去に、彼女のブログで、いわゆる 「炎上」 が起きたことがあるのかどうかは知らないが、イージス艦と衝突して沈没した漁船の乗組員についての発言が原因で炎上にいたった、「しょこたん」 こと中川翔子の例など、芸能人のブログがちょっとした 「失言」 で炎上にいたった例はいくらでもある。 小生のような無名の人間にとっては、自費出版のような金もかかり、面倒なことと違って、ブログは簡単に自分の文章を公開することができ、その結果、いろいろな欲望を手軽に満たすことを可能にするツールでもある。だが、たとえ匿名であろうと、ネットにブログを公開するということは、「悪意の人」 をも含めた、多くの人々の視線と欲望の前に自己をさらすということでもある。 それは、親にも見せない机の中の 「秘密日記」 の場合でもむろん同じではある。しかし、自己以外の他者の視線がまったく介在しないそのような場合と、たとえどこの誰だか分からず、また書いている本人のことについてもなにも知らない 「赤の他人」 であるとはいえ、不特定の他者の視線が介在してくるウェブ日記の場合とでは、おそらくなにかが違ってくるはずである。 そして、そのようなナイーブな文章に、たとえばまったくの赤の他人である未知の誰かから、「感動しました!」 とか 「負けないで!」 などという、いささか無責任なコメントが寄せられれば、書いた本人のナイーブな自己像は、いわば 「他者による承認」 を得たことになり、無意識のうちにさらに強化されることになるだろう。それがとくに 「苦悩するわたし」 とか 「可哀想なわたし」 というような自己像であれば、そのような自己批評性を欠いたナイーブな自己表出は、いったいどこへ向かうことになるだろうか。 自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。 (中略) 「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。
中国の古い言葉に、「綸言 汗のごとし」 という言葉があるが、いったん発した言葉は二度と取り消せないというのは、なにも天子や貴人のみに限られたことではない。むろん、自殺したフリーアナウンサーが、いったいどういう悩みを抱えていたのかは分からないし、彼女がブログを書いていたことと、彼女の自殺とを直接結び付けようという話をしているわけでもない。 http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20080526/1211790646 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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