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カテゴリ:文学その他

 先日、赤塚不二夫が死んだかと思ったら、こんどはソルジェニーツィンが死んだそうである。もっとも、まだ72歳だった赤塚と違って、こちらは1918年生れの90歳になる直前だったというから、とりあえず大往生である。ノーベル文学賞も貰ったことだし、この世に思い残すことはなかっただろう(断言はしないが)。

 ソルジェニーツィンといえば、みずからも8年間の収容所生活を送り、その経験に基づいて、大作 『収容所群島』 を始めとする作品を書いた人であり、ソビエト時代の反体制派文化人として、なんとトロツキー以来、45年ぶりという国外追放の憂き目にあった人でもある。

 ただ、追放後の彼は、欧米の 「物質文明」 を批判して、キリストへの信仰を強調するなど、しだいに保守的宗教的な傾向を強めていく。その姿勢は、欧米と同様のロシアの民主化を指向するグループとは、明確に異なったものであり、昨年には、すでに独裁化傾向を強めていたプーチン大統領とも面談し、選挙でもプーチン支持を明確にしたという話もある。

 追放後の20年に及ぶアメリカでの生活が、生粋のロシア人たる彼にとって、けっして居心地のよいものではなかったということは理解できる。拝金主義や商業主義が横行する西欧とその文明への嫌悪感や批判というのも分からないではない。

 また、若い頃には外国の先進的な文明に憧れていた人が、齢を重ねるごとに民族的な伝統や文化への回帰を強めるということは、日本を含めて、一般に 「後進国」 や 「後発国」 の知識人にはよくあることであり、それもまた一概に否定されるべきことでもない。

 たしかにロシアにはロシアの進むべき道があるだろう。欧米流の民主主義がすべてではないし、それだけを基準にして、今のロシアの政治を非難するわけにもいくまい。しかし、それでも、強権性を強めているプーチンを支持したという晩年の彼の姿勢については、やはり疑問が残るところだ。

 ロシアの近代化はピョートル大帝による改革から始まるが、それ以後の歴史は、ほとんどつねに民族の固有性を重んじるスラブ派と、西欧流の近代化を志向する西欧派との対立で彩られている。むろん、それは単純な対立ではなく、西欧の社会主義的な思想や運動の影響を受けながらも、「資本主義的発展」 の道をたどらない独自の革命の道を求めた 「ナロードニキ」 のように、両方の要素が入り混じっている場合もある。

 バクーニンは、もともとマルクスと同じくヘーゲル左派というドイツ哲学の一派の影響を強く受けた人であるが、同時に 「破壊への情熱」 や強烈な無神論を特徴とするその思想と運動には、やはりロシア的なもの、いわばロシア精神ともいうべきものが強く感じられる。

 有名な話であるが、ドストエフスキーもまた若い頃に社会主義者のサークルに加わっていたことがあり、そのためいったん死刑の判決を受けながら、執行の直前に恩赦による減刑を受けて(皇帝の慈悲を示すための芝居だったそうだが)、四年間シベリアで暮らしている。

 シベリアから帰還してからの彼は、小説家として様々な作品を書きながら、同時に 『作家の日記』 に収められた時事評論などで、ロシア正教とスラブ=ロシア民族の歴史的使命を称揚して対トルコ戦争を主張し支持するなど、大ロシア主義的な姿勢を強く打ち出している。

 キリストへの信仰と、ロシア的なるものへの回帰に至ったソルジェニーツィンは、まさにそのような意味で、革命前のロシア文学の歴史と伝統に連なる、最後の一人だったのかもしれない。

 ソルジェニーツィンは、最終的には革命後の70年の歴史を全否定し、革命前の伝統への復帰を唱えていたようだ。しかし、そもそもドイツとの戦争によって生じた帝政と社会の全面的な崩壊という中で、口先ではなく実際に広大なロシアを統治するだけの能力を持った勢力が、あの時点でレーニンの党以外に存在していたかは、きわめて疑問である。

 彼の党が内戦とその後の危機の中で、農民からの強制的な食料徴発や、テロルによる弾圧など、様々な過ちを犯したことは否定できない。とはいえ、彼と戦った帝政派の貴族や軍人らが、かりに内戦で勝利していたとして、蜂起した農民らを彼以上に優しく扱っただろうとか、その後の社会の再建と近代化に成功しただろうなどと想像する根拠も、それほどあるとは思えない。

 破局的な危機の中でレーニンの党による黙示録的な革命が勝利したという事実も、その後のスターリンの暴政もまた、けっしてロシア的なものと無縁だったわけではあるまい。独裁者スターリンが西側の批判者からしばしば 「赤いツァーリ」 と呼ばれたのも、ただの偶然ではないだろう。

 1947年、レーヴィチというクラスノヤルスク収容所群の懲罰収容地点に、約40人の日本人の将校たち、いわゆる 《戦争犯罪人たち》 が運ばれてきた。酷寒が続いていた。ロシア人にも無理な伐採作業だった。否定分子たちはさっそく彼らのうちの何人かを裸にして、数回にわたって彼らのパンを箱ごと盗んでしまった。何が何だかわけの分からない日本人達は、いつ当局が介入してくるかと待っていたが、当局は当然のことながら、このことに目をつぶっていた。

 すると、日本人の班長だったコンドウ大佐が班員の中の古参将校を二人伴って、ある晩収容地点の地点長の部屋を訪れ、もしこの暴挙をやめさせなければ、翌日の夜明け前に志願したこの二人の将校が切腹すると警告した。しかもそれはことの始めにすぎないと言った。地点長はこの問題で失敗しかねないと気づいた。その結果、日本人の作業班は二昼夜作業へ連れ出されず、普通の食事を与えられ、その後は懲罰収容地点から別なところへ移された。

「収容所群島」 新潮文庫版の3巻P436より 


 なお、このコンドウ大佐とは、訳者である木村浩氏の注によれば、元陸軍大佐である近藤毅夫という人のことではないかということだ。彼がこの大作を書き上げるに当たって、膨大な量のエピソードをどのようにして収集したのかは判然としないが、この逸話の正しさがそのように確認されたということは、この大作に収められた様々なエピソード一つ一つの事実としての正確さを証明するもののように思える。

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080805/1217905285






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Last updated  2008.08.06 13:42:11
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