手記の中から箴言風の言葉を集めたウィトゲンシュタインの 『反哲学的断章』 に、「自分を騙さないことほど難しいことはない」 という言葉がある。言い換えると、「自分を騙すことほど簡単なことはない」 となるだろうか。むろん、この程度のことを言うのに、わざわざ大先生の名前など出す必要はないのだが、ちょっと 「知ったかぶり」 をしてみたいのである。
誰が言い出したのか知らないが、インドの釈迦、中国の孔子と並べて三大哲人と言われているソクラテスが、デルフォイのアポロン神殿に刻んであった 「汝自身を知れ」 という言葉を、導きの糸としていたことは有名な話である。「自分自身を知る」 ということは、古来より多くの東西の賢人が課題としていたことなのである。
それはつまり、「自分自身を知る」 ということがいかに困難なことかということであり、翻って言うならば、人間はたいていの場合、本当の自分を知ることなく、自分自身を騙し騙ししながら生きているということでもある。もっとも、イソップの 「酸っぱいブドウ」 の童話にもあるように、乗り越えようのない困難にぶつかったときなどは、たしかにそのほうが気楽であり、精神衛生にとってはよいのかもしれない。
とはいえ、これは 「真の自己」 なんてものが、確固たる実体としてどこかに存在しているとか、現象とは別個の本質としてその背後に隠されている、というようなことではない。「真の自己」 といったものが、今こことは違うどこかにあるはずだみたいに実体化してしまうと、今度は 「自分探し」 みたいな話になり、最悪の場合には、オウムのような擬似グノーシス的な三流宗教にはまってしまうことにもなりかねない。
ウィトゲンシュタインの先生であり友人でもあったラッセルは、ベルグソンの直観哲学を批判する中で、こう言っている。
氏(ベルグソン)によると、絶対に誤ることがない直観のもっともよい例は、私たち自身に関して私たちが熟知していることである。しかし、自己を知るということは、諺にもあるように、まれにしかできない難しいことである。たとえば、たいていの人はその性質の中に、卑しさ、虚栄心、ねたみといった性質を持っているが、それを意識するということはまったくない。ところが、こういった性質は、もっとも親しい友人にさえ容易に感づくことができる。
直観には知力には見られない確信が備わっているということは本当である。さらに直観に確信が加わると、直観が正しいことを疑うことはほとんど不可能になる。しかし直観が、検討の結果、少なくとも知力と同じ程度に誤りやすいということになると、直観の持つより大きな主観性は欠点となって、直観をどうしようもないほど欺かれやすいものにするにすぎない。
単純な話、「本当の自分」 というものは、別に隠されているわけではない。それは、多くの場合、十分に現象しているのであり、周囲の者には分かるのだが、肝心の自分は気付かないというだけの話である。したがって、そのような 「本当の自分」 を見つけるのに、なにやら神秘的な体験や啓示、「隠された知恵」 などは必要ない。ただ、他人の声に真摯に耳を傾ければよいのである。
とはいえ、その 「他人の声」 にも、相手の偏見や独断、思い込みなどが含まれていることもあるので、それを見分けるのもたいへんではある。その見分けもまたこちらの主観によるわけだから、いささか堂々巡りにはなるが、最終的には、「信頼できる人」 をどう見分けるかの話に帰着するのではないかと思う。
話はとぶが、阿部和重の 『アメリカの夜』 という小説は、冒頭からいきなりブルース・リーの話で始まっている。彼の映画がヒットした頃には、多くの若者がリーになりきり、映画館から出てくると、みなアチョーという奇声を上げて街角の電柱を蹴りつけ、看板を蹴倒したそうである。
それは、高倉健の映画でも、中村敦夫が演じた 「木枯らし紋次郎」 でも同じである。健さんに憧れた者は、健さんの真似をして寡黙を気取り、紋次郎に憧れると、今度は紋次郎の真似をして、長い楊枝をくわえて、「あっしには関わりねぇことでござんす」 などと言ってみたくなるものである。
人は誰しも、「自分はこうなりたい」 というような理想を持っている。むろん、それはそれで構わないのだが、そのような 「自分はこうありたい」 という理想をあまりに長く強く念じすぎると、今度はそのまま 「自分はこうである」 という勘違いに陥ることもないではない。
これが、勉学やスポーツの世界のように客観的な評価が可能であれば、目標と現実の混同という勘違いに陥る余地はあまりない。記録というものは無情なものであり、100mを15秒でしか走れないものが、12秒で走る相手に対して、俺だって本気を出せば、などと言ってみたところでしょうがない。そのような強がりには、「今日はこのくらいにしといてやろうか」 という、池乃めだかの例のギャグほどの値打ちもない。
現実の世界というものは残酷なものであって、よほど頑なな人間でない限り、自分についての勝手な思い込みは、他人とのリアルな付き合いのなかで、脆くも崩れ去り、修正を余儀なくされるものである。それがつまり挫折ということであり、いささか偉そうに言うと、人はそういう挫折を重ねることで、大人になっていくのである。
それに比べると、ネットという世界には、そういうリアルな関係の場所でないだけに、自己についての幻想を保ちやすいところがある。実際、どう見ても、その人が掲げている自己イメージと実態の間にかなりのずれがあるとしか思えない人を、ネットで見かけることは珍しいことではない。
そういう人が、したり顔でとくとくと誰かに説教したりしているのを見ると、よせばいいのにお節介にも、ついつい 「それは、あなたのことじゃないのかな」 とか、言ってみたくなるのである。困った性分である。 嫌われるのは、そのせいなのだろう。
たぶん、そういうところが、しばしば小人(しょうじん)をネットに耽溺させるネットの誘惑であり、魔力なのだろう。むろん、これはひとのことに限った話ではなく、十分に自戒しなければならないことでもある。