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カテゴリ:ネット論
最近、pokopnにっきというところのしりとりにはまっている。仕事中も、いろいろ言葉が浮かんできて仕事にならない。というのは大げさだが、つぎつぎ投稿すると、前の人のが隠れてしまうので、いささか気が引ける。そこで、投稿しそこなった、「め」 で始まり 「め」 で終わる 「め」 のループ編を自分のところで披露することにする。ルールはひらがなで10文字以内。解説も付けます。
そもそも 「批判」 とは、なにも一部で言われているような、無理やりな 「強固な団結と一致」 とやらを目的にしているわけではない。そのように言っている人は、そもそもの前提からして勘違いしている。 むろん、議論の結果一致できるなら、それはそれでよい。しかし、批判の目的は、1つは物事の理非を明らかにすることであり、次に、自分の立場を明らかにすると同時に、互いの違いを明らかにすることである。 たとえば、批判を行う人らに対して、「大人の対応」 だとか 「清濁併せ呑む」 といった言葉を持ち出す人がいる。なんだか、日本人の好きな聞こえのいい言葉である。たしかに、「リアルでの運動」 であれば、現実的な対応は必要だろう。だが、そんなことは分かりきった話である。誰でも知っている程度のことをしたり顔で言う人を見ると、こちらのほうが恥ずかしくなる。 たしかに、ネット上での議論は、「リアルでの運動」 とは違う。だが、むしろネットの世界はバーチャルであればこそ、リアルな世界では顧慮せざるを得ない、ややこしい人間関係や政治的配慮などの必要なく、純粋に言論活動が行える。 互いに縁のない同士であるネットでの議論に意味があるとすれば、まさにそこにこそあるだろう。そこで、「リアルでの運動」 そのままの流儀を持ち出す人がいるとすれば、それこそが筋違いな話である。それでは、せっかくのネットの意味がなかろう。 むろん、「リアルな運動」 を行っているという人が、自分はネットよりもそちらのほうを重視するというのは構わない。ネットでの言論に直接にそれほどの力があるとは、誰も思っていない。しかし、だからといって、ネットでの言論が無意味だということにはなるまい。 問題は、そこで自分がなにを学び、なにを身に付けるかだろう。「リアルな運動」 が大事だからといって、ただ近視眼的に、目の前のことばかり追っていてもしかたないのではないのか。 ネットでの言論といえど、そこで議論しているのはあくまで生身の人間である。物事の優先順位はともかくとして、そこで徹底して考え抜くことを 「リアルな運動」 を口実にして回避するような人らに、はたしてどれだけの 「リアルでの運動」 が務まるというのだろうか。それは、非常に疑問である。 それに、どんな 「リアルでの運動」 であれ、一定の主義主張に基づくものであれば、なんでもかんでも 「清濁併せ呑む」 というわけにはいくまい。どこかで線を引かざるを得ないのも、これまた自明のことだろう。であれば、そのような詰まらぬ言葉など、安易に持ち出すべきではない。 他人への批判であれ、批評であれ、人は良くも悪くも自分の尺度でしかものを言えない。そこで、顕わになるのは、その人が持っている尺度の是非であり、その人の甲羅の形と大きさということになるだろう。その意味で、批判や反論をするということは、どんな場合にも、おのれを他人の前にさらけ出すことを意味する。 「自分を棚に上げた批判」 をする人は、まさにその人がそのような人であることを暴露しているのだし、頓珍漢な批判をする人は、それによって、その能力の程度を示すことになる。くだらぬ嘲笑や罵倒しかできぬ人は、それによって自らがその程度の者であることを表明しているのだし、知ったかぶりや揚げ足取りばかりをする人は、それによって自らがそのようなくだらぬことしかできない人間であることを暴露していることになる。 だから、批判という行為によって明らかになるのは、対象と同時に、批判をする者自身でもある。自己というものは、なにも気恥ずかしい 「内面の吐露」 や演技めいた 「告白」 によってしか、顕わにならないわけではない。言葉というものには、すべてその人の人となりが表されるのであり、言葉を発するという行為は、すべてそのようなものである。 それに比べると、ことさらに 「大人の対応」 というような言葉を持ち出して、批判や論争に対し超然たるふうを装う人らは、むしろ、そのような議論を通じて、おのれの姿がたまねぎの皮を剥くようにしだいに顕わになることを怖れているだけのように見える。そういう言葉を盾にした超然たる態度には、なにかしら、あの阿Qの弁解や池乃めだかのギャグじみたところがある。 そのような、いささか強がりじみた言葉で議論を回避する人と比べれば、たとえ 「勘違い」 や 「誤解」、「誤読」 にみちた頓珍漢な批判であっても、敢然として批判や反論をする人のほうが、むしろ私は好きである。そこには、少なくとも自らを他人の視線にさらすことへの勇気と、反論を受けることへの覚悟がある。 「緩やかな連帯」 を口にするのはよい。だが、だからといって、それはなにも互いの違いを曖昧にしておかなければ成立しないというものでもあるまい。そもそも、互いの違いを明確にしては成り立たないというのであれば、それは 「緩やかな連帯」 でもなんでもない。 なんとはなしに曖昧なまま 「連帯」 しているつもりで、ある日突然、気がついてみたら、お互いの考えていることが全然違っていたなんてことも、その手の世界ではわりとよくある話だ。そのときになって、慌てふためいてもしかたないのではないのか。
たとえば、円柱を上から見た人は、それを円だと言うだろう。いっぽう、横から見た人は、それを四角だと言うだろう。その相違は視角の違いだけであって、そこに真の意味での対立はない。
まったく、そのとおりである。そのような立場の違いによる見え方の違いは、互いに共有しあうことで、当初の一面的で平面的な見方から、多面的で立体的な見方へと統合され、結果として、対象に対する理解もそれだけ深まるだろう。 だが、その場合にも必要なのは、徹底したお互いの議論である。 「私には、こう見えます。でも、あなたにはそう見えるのですね。ものの見方というものは人それぞれですね」 というような言葉で議論を回避していたのでは、お互いの理解を一つに総合し共有することもできはしまい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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