自民党の総裁選に 「出馬させていただいた」 小池百合子元防衛相の立候補挨拶を聞いたが、その無内容さといい加減さには、いささか呆れはててしまった。
彼女の言うには、「キーワードは改革。改革すべきは改革し、守るべきは守る。片仮名では(米民主党の)オバマ大統領候補が出しているように 『チェンジ』」 なのだそうだ。
海の向こうのオバマ候補の人気にちゃっかりあやかろうという無節操さ(まだ、共和党のブッシュ政権が終わったわけでも、オバマの当選が確実なわけでもないんだよ)はともかくとして、「改革すべきは改革し、守るべきは守る」 とは、いったいどういう意味なのだろう。まったく、わけが分からない。
そもそも 「改革すべき」 ということは、改革する必要があるということだから、これを改革するのは当然のことである。「守るべきは守る」 というのも同様であり、どちらも命題として論じる限り、ただの同語反復でしかない。
むろん、これは一種の決意表明のような言い回しであり、その限りではまったく無意味とは言えない。しかし、いずれにしても、なにを改革すべきであり、なにを守るべきかということが明らかでない限り、このような言葉にはなんの意味もない。
おまけに、「具体的な政策として環境税の導入検討や農業活性化、女性の目線に立った政策の実行などを挙げた」 ということだが、これもさっぱり意味が分からない。「女性の目線に立った政策の実行」 とは、具体的にどのような政策のことを言うのか。まるで、ちんぷんかんぷんである。
実際、一口に 「女性」 と言ったって、その考えや意見はさまざまというものだ。それをただ 「女性の目線」 と言っただけでは、何のことだか分からない。この人の言うことは、どれもこれも、ただ受けを狙っただけの空疎な言葉ばかりで、聞いていると頭が痛くなる。
町村派の大幹部である中川秀直が彼女を推しているということだが、以前の女性スキャンダルで表に立てない彼としては、小池を立てることで、あわよくば 「陰の総理」 のような座を狙っているのではとすら思いたくなる。初の女性総理ということになれば、民主党の小沢に勝てるかも、などと言うにいたっては、バカを言うなとしか言いようがない。
そもそも、抽象的なレベルで言う限り、一般的な命題というものには、どれもそれなりの正しさはある。諺や名言・格言の類を取ってみても、一方には 「急がば回れ」 とあり、他方には 「善は急げ」 とも言う。「果報は寝て待て」 という言葉もあるが、「思い立ったが吉日」 とも言う。「人を見たら泥棒と思え」 と言うかと思えば、「渡る世間に鬼はなし」 とも言う。
いずれも、それなりに正しいものであり、そういった格言をつねに頭の中に入れておけば、それなりに一定の効用はある。しかし、それはそれだけのことだ。果断な決断と行動が必要なときに 「急がば回れ」 ではしょうがないし、ここは慎重にしなければならないというときに、「善は急げ」 を持ち出してもしょうがない。
結局、大事なのは、今ここでのこの問題に対して、どのような態度を取るべきかということだ。そこで、それなりに適切な判断ができてこそ、はじめて意味があるのであって、一般的な命題を振り回すだけではなんの意味もない。そういう抽象的で一般的な命題のみを振り回すような人に対しては、「はあ、そうですね。それはそのとおりです」 としか言いようがないのである。
たとえば 「したたかに、しなやかに」 というような言葉にしてもそうである。そのことには、誰も反対しない。思考や言動の硬直化に陥らないために、そういった言葉をスローガンにすることに反対はしないし、そのような硬直化という弊害が現実にしばしば見られることも、否定はしない。
しかし、同時に、「逆に、無節操に妥協を繰り返すことも、有害です」 というのであれば、一つ二つの例示であってもよいから、その規準を少しは明らかにしてもらわなければ、まったく意味があるまい。論評もなにもしようがないというものである。
レーニンによれば、「抽象的真理はない、真理はつねに具体的である」 というのは、ヘーゲルの論理学を踏まえたプレハーノフの言葉だそうだ。虎の威を借りるというわけではないが、まことにそのとおりである。ちなみに、ヘーゲルは 『小論理学』 第82節の中で、こういうふうに言っている。
したがって、この理性的なものは、思想であり抽象的ではあるけれども、単純な、形式的統一ではなくて、異なった規定の統一であるから、同時に具体的なものである。それゆえに、哲学はたんなる抽象あるいは形式的な思想にはまったく関しないものであって、それが取り扱うのはひたすら具体的な思想である。
しかし、こっちはやっぱりよく分からない。 さすがに、難解なることをもって知られる、ヘーゲルさんだけのことはある。