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カテゴリ:ネット論
自民党の総裁選挙は、いまや年中行事と化したかのようである。これについては、昨年書いた 「政党の党首選でなぜ街頭演説をやるのだろう」 という記事から、福田の名を消し、替わりに別の名前を数人追加すればいいだけのことなので、いまさらどうこう言う気もしない。あほらしくて話にもならない。 だが、誰かがあなたの文章に対して批判的なことを言ったからといって、それはなにもあなたを 「敵」 と認定して攻撃しているとは限らない。誰だって、塾や学校などで、教師や友人に自分の計算間違いを指摘されたような経験は、一度くらいあるだろう。だが、そのような指摘に対して、お前はおれを敵視するのか、などと頭から湯気立てて詰め寄ったりすれば、お前はバカかと笑われるのが関の山というものだ。むろん、そういう些細なことをいつまでもぐじぐじと根にもつような人間も、世の中にはいないわけではないだろうが。 しかし、ちょっとでも頭を冷やして考えてみれば、なにもそれは、あなたがその教師や友人から 「敵」 とみなされて 「攻撃」 されたわけではないことぐらい分かるだろう。ましてや、そのような人から、あなたが 「打倒」、「粉砕」、「殲滅」 すべき不倶戴天の敵などと看做されているわけでもあるまい。たかだかネット上の論争程度で、そのような感情を抱いている人がいるとすれば、それはいささか思い過ごしというものであり、自分を過大評価しすぎというものである。 あなたが思っているほど、世間の人はあなたのことなど気にかけちゃいない。たかだか、ちょっと批判的なことを言われたぐらいで、「敵」 認定されただの、「内ゲバ」 がどうの「敵愾心」 がどうのなどと言い出す人を見ると、目が点になる。それは、あまりに自意識過剰というものだろう。あなたが思っているほど、他人はあなたのことなど気にしちゃいない。世間というものは、もっと広いのだし、世の中の人間はみんなまずは自分のことで忙しいのだ。 ところで、先日 「リベラル」 を自称しているらしいあるブログで、麻生太郎のことを 「口曲がりの麻生」 と揶揄している表現にぶつかった。原因がなんなのかは知らないが、たしかに、テレビで見る麻生の唇は片方がいつも歪んでいる。だが、そのことと、彼の政治家としての言動にいったい何の関係があるのか。政治家としての彼を批判するのに、なぜ彼の容貌を揶揄する必要があるのか。 むろん、そのような人が 「人権」 だの 「平和」 だのといった美しい言葉をいくら並べようと、そのような言葉にいささかの価値があるとも思わない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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