昨日は最高気温が32度と残暑が厳しかったが、今日の最高気温は26度どまりだった。「三寒四温」 ならぬ 「三暑四涼」 で、行きつ戻りつしながらも、着実に季節は変わっている。いわゆる 「ラセン的進行」 というやつである。
中学の部活で剣道をやっていたころの話だが、試合などでよく使ったのが、わざと面や小手に隙を作って相手を誘い込むという手。そこを狙って相手が打ち込んでくると、その瞬間大きく振りかぶり、後方へ跳びながら、がら空きになった相手の面を思い切り叩くのである。
むろん、こういう手は同じ相手に何度も通用はしない。しかし、対外試合などで初めて当たる相手だったりすると、これが結構決まるのだ。コツは罠と気付かせないように、ちらっちらっとごく自然な感じで隙を見せること。相手は、自分から攻めているつもりなのだが、実はこちらの手の上で踊っているにすぎない。いわば、お釈迦様の掌の上で暴れていた悟空のようなものである。
こういうことは、ネット上の議論などでもしばしば見受けられる。そういう場面に遭遇すると、「あなた、相手の手の上で踊っているだけですよ」 と忠告したくなるのだが、そんなことを言うと、かえって 「よくもオレに恥をかかせたな」 などと逆恨みされかねない。なにしろ、世の中にはいろんな人がいるものであり、ちょっとした批判や言及でも、いつまでもネチネチと恨みに持つ人らもいるようだから。
言葉というものは不思議なものであって、何かを指し示すだけでなく、何かを隠蔽したり、それとは反対のことを指し示すという働きもする。たとえば、誰に聞かれたわけでもないのに、自分から 「他意はない」 などと言う人がいれば、それは 「他意がある」 ということを無意識に隠蔽しようとしているのか、でなければ、口では他意はないと言っているけど、本当は他意があるんだよ、ということを暗にほのめかしているかのどちらかである。
人は 「レッテル貼りはよくない」 という言葉によって、レッテル貼りをすることもできるし、「思考停止はよくない」 という言葉によって、思考停止に陥いることもある。たとえば 「陰謀論」 や 「疑似科学」 に対する批判に対しては、決まって 「レッテル貼りはよくない」 と言う人が現れるが、それはただの条件反射にすぎない。ようするに、それもまた 「レッテル貼り」 なのである。
「思考停止はよくない」 というのも、一般論としては間違っていない。だが、自らが具体的な思考を進めるわけでもなく、ただたんに一般論として 「思考停止はよくない」 というだけならば、それは自己の思考と判断の停止を隠蔽するための言訳でしかあるまい。個別の論の正しさは、そこで持ち出される一般論の正しさによってはいささかも担保されない。
「人は自分からしか変われない」 というのも、そのとおりである。人がもっともよく学べるのは、言うまでもなく自らが直接に経験した失敗からである。しかし、一生の間に一人の人間が直接に経験できることなど、たかがしれている。他者との対話とは、そういう狭い範囲での直接の経験を超えることを可能とする経験なのであり、だからこそ自分が変わるための契機にもなりうる。
しかし、対話を得意としたかのソクラテスだって、最後には 「健全な青年らを惑わす」 という罪で、毒を呑むはめになったのだから、対話の難しさというのは今も昔も変わりはしない。だが、だからといって批判は無用だとか、有害だとかいう話にはなるまい。それでは、毒を飲んだソクラテスも浮かばれないというものだ。そもそも、いつの時代でも、なんの話でも、世の中には、通じる相手と通じない相手がいるものであって、こればっかりはしょうがない。
相手の立場に立った批判が大切などという者は、とりあえずまず自分がやってみせることだ。泳ぎを覚えるのに必要なことは、まず水の中にはいることであって、プールサイドに立ったままであれこれと他人の泳ぎを論評したり、畳の上で水をかく真似をすることではない。同じように、「人は自分でしか変われない」 という者は、ならばまず自分が変わってみせることだ。そういう人の言葉であってこそ、この言葉も始めて意味を持つだろう。
概念など理解していなくとも、言葉を使うことはできる。わが不肖の息子は4,5歳のころに、なんの拍子か 「どういたしまして」 と返事して(正確には 「どういたまして」 だったが)、周囲の大人らを爆笑させたが、ただの子供だってしじゅう大人に入り混じっていれば、「自我肥大」 だの 「自己投影」 だのと、大人の口真似をするぐらいのことはできる。そもそもそのくらいのことなら、オウムだって九官鳥だってできるのだ。