|
カテゴリ:ネット論
有名な古典の冒頭というのは、たいていの学校で覚えさせられるものである。たとえば、「春は曙」 とくれば 『枕草子』 であるし、「祇園精舎の鐘の声」 とくれば 『平家物語』 である。また 「ゆく川の流れはたえずして」 とくれば 『方丈記』 であるし、「月日は百代の過客にして」 とくれば 『奥の細道』 である。 ちょっと毛色の変わったところで言えば、「一つの妖怪がヨーロッパを歩き回っている」 というのもある。これは言うまでもなく、『共産党宣言』 の冒頭である。 つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心に映りゆくよしなしことを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。
『徒然草』 の最後の段には、八歳のときに父親に 「仏とはどういうものですか」 と問い、「仏とは人がなったものだ」 という父の答えに対し、さらに問いを続けて、最後には 「空から降ったのだろうか、土の中からわいたのだろうか」 と言わせて、父親をへこませたという思い出話が書かれている。ただの自慢話のようでもあるが、これを最後にもってきたのには、それなりの理由があったのだろう。 そこに書かれているくらい、幼少から賢く、親の期待も大きかったであろう兼好さんではあるが、結局、時代の動向には逆らえず、有為転変のつねなき世の中で翻弄されるという点では、凡人とさほど変わりはない。ひょっとすると、この話で兼好さんが言いたかったのはそういうことなのかもしれない。 兼好さんが言うように、「書く」 という行為には、どこか人を狂わせるものがある。「書く」 という行為は、書かれたテキストによって指し示される仮構の 「主体」 を立ち上げることでもあるが、それは多かれ少なかれ、現実の主体とは異なるものであり、そこには微妙な位相のずれがある。そこには、自分でも気付かなかった深層の主体が現れることもあれば、意識的無意識的に 「自分はこうありたい」 という願望としての 「主体」 が投影されることもある。 ましてや、それが自分だけのひっそりとした行為ではなく、書いた文章を他人の目にさらすということになれば、書かれたものは自分の手を離れて、独自に存在することになる。そこに賛否両論、いろいろな反応があるのは当然であるが、支持者やファンが増えたりすると、「書き手」 はその期待に応えるべく、ますます仮構された 「自己」 の虚構化に努めることになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[ネット論] カテゴリの最新記事
|