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カテゴリ:思想・理論
先月のことだが、福岡の小戸公園で男子小学生が殺されるという事件があった。現場はここから自転車で30分ほどで行けるところで、最近はあまり行っていないが、子どもが小さかった頃には何度か遊びに連れて行ったことがある。 たとえば、4ヶ月ほど前に死刑が執行された宮崎勤の事件の場合、地検による精神鑑定では 「精神分裂病 (当時の呼称で、現在では統合失調症に改称) の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まる」 とされたが、その後の公判では、さらに多くの精神科医や心理学者により鑑定が行われ、その結果は 「人格障害」 から 「統合失調症」、「解離性同一性障害」 までまさにばらばらだった(参照)。 とはいえ、このような結果は、精神というものが肉体のような目に見える実体ではないということを考えれば、なにも不思議なことではない。精神や人格の障害については、専門家によりいろいろな分類がされているが、それは典型的な症例をもとにカテゴライズしたものにすぎず、個別の具体的な例における診断は現実にはきわめて困難なものなのだろう。 「謎はすべて解けた」 というのは、自称・名探偵の孫である金田一少年だか、奇妙な薬のせいで体が小さくなった江戸川コナンだかの決め台詞であるが、すべての謎が解けるのは、安手の推理ドラマや推理小説のような、登場人物が限られ、舞台も限定され、おまけに人物そのものがただの操り人形にすぎない虚構の 「閉じた世界」 の中でのみありうることであって、現実にはそうはいかない。 「陰謀論」 でもなんでもよいが、なんらかの 「説明図式」 によって、「すべての謎は解けた」 とか 「すべてが理解できた」 などと思ったとき、しばしば人はただある 「思い込み」 にはまり込んでいるだけなのである。現実というものは、出題者によって、あらかじめ答がでるように設定されている数学や物理の問題のようには必ずしもできていない。「謎が解けた!」 と思って、頭の中に電球が灯ったりピンポーンと音が鳴ったときこそ、実は本当は気をつけなければならない。 オウムの麻原に傾倒し、結果として様々な犯罪に手を染めた者らもまた、教団という小さな世界の中でも、さらに狭い富士の麓のサティアンなどという 「閉じた世界」 の中で彼の説教を聞き続け、わけの分からぬ修行をしているうちに、「すべての謎は解けた!」 という錯覚による落とし穴にはまったのだろう。 「考える」 ということは、そのような罠に落ち込むことなく、たえず小さな違和感にこだわり続けることである。「懐疑」 による相対化とは、そのような思考を進めていくために必要な方法なのであって、ただの無知や愚かさ、怠惰な判断停止や居直りなどを正当化し弁明するための言訳なのではない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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