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カテゴリ:文学その他
「コッペリア」 というと、「くるみ割り人形」 や 「白鳥の湖」 とならぶバレー演目の定番とでもいうべき作品だが(といっても見たことはない)、もともとは怪奇と幻想を特徴とするドイツ・ロマン主義の作家ホフマンの 『砂男』 を原作にしている。ちなみに 「くるみ割り人形」 の原作も同じくホフマンであるが、ホフマンにはそのほかに、「牡猫ムルの人生観」 というような作品もある。 「砂男」 伝説については、主人公の幼い頃に女の召使がこんなふうに話して聞かせている。
なるほど、子供が親のいうことを聞かずに遅くまで外で遊んでいたり、起きていたりすると、天狗にさらわれるぞとかサーカスに売り飛ばされるぞなどと言って、子供を脅しつけるというのは、どこの国にもあるようである。秋田のなまはげの台詞も、「悪い子はいねえがー」 というものだし。 ところで、この作品については、フロイトが 「無気味なもの」 という短い論説で分析を試みている。フロイトの分析は、例によって目玉はペニスの象徴であるとか、失明は去勢を意味するなどとと性的含意の強いものだが、この小説の最後に塔から身を投げて自殺する主人公の狂気が、幼い頃の父親の死をきっかけにしているところを見ると、「砂男」 の隠れたテーマは、例のエディプス・コンプレックスにつながる 「父親殺し」 にあると言ってもいいのかもしれない。 さて、「無気味なもの」 に関して、フロイトは次のように分析している。
一般には、人はお化けや幽霊のような正体の確かでないものを見たときに 「無気味さ」 を感じるという。あるいはそれまで馴染みだったもの、理解していたつもりだったものがまったく別の見慣れぬもの、理解しえぬものに変容するのを目撃したりしたときも、人は 「無気味さ」 を感じる。 しかし、そのような無気味なものとは、実は文明と理性によって人間の意識下に抑圧されていたものが、何かの拍子で噴出したものにすぎない、そういうふうにフロイトは言っているようだ。 なおフロイトの孫引きによれば、哲学者のシェリングは 「秘密のうちに、隠されたものままで……いなければならないはずなのに、それが表に出てくると、おしなべてそれを無気味と称する」 と言っているそうだ。 フロイトも指摘しているが、「無気味」 という意味の言葉であるunheimlichの語根であるheimlichには、一方では 「親しみのあるもの、快適なもの」 を意味すると同時に、他方では「隠れたもの、隠されたままにされているもの」という二重の意味を持つという。 「家庭の秘密」 という言葉があるが、家庭=家族とは、それを構成する内部の者にとっては、気のおけない、心の休まる、馴染み深い故郷のようなものである(もちろん、そうでない場合もあるだろうが)。しかし、同時に家庭=家族とは外部の者にとっては容易に入れない、そこでは外部の者はよそ者として排除される 「秘密」 の領域でもある。 これをいささか強引に敷衍すると、家庭=家族とはなんらかの 「秘密」 を共有することによって成り立っている集団であるということになるのかもしれない。ただし、この話を続けると、いささか危険な領域に入りそうな気がするので、このへんで終わりということにしよう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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