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カテゴリ:文学その他

 時代を越えて長く読み続けられる海外の名作というものは、多くの人によって翻訳されるものだ。たとえばルイス・キャロルの 『不思議の国のアリス』 であれば、亡くなった矢川澄子のほかに、SF作家の福島正実や詩人の北村太郎、柳瀬尚紀など、実に多くの版が出ている。

 そこには、当然名の売れた作品だけに、市場に出しさえすれば、ある程度の売れ行きが見込めるという出版社側の思惑もあるだろうが、いっぽう、自分の手で翻訳し、それを多くの人に読んでもらいたいという訳者の側の願いもあるのだろう。

 最近では、サン=テグジュペリの 『星の王子様』 がそうである。最初の翻訳は岩波から出ていた内藤濯のもので、長い間、その1種類しかなかったのだが、3年前に岩波の権利が失効して以来、池澤夏樹や倉橋由美子、河野万里子によるものなど、多数の版がいっせいに登場した。Wikipediaによると、2005年から2006年にかけて、なんと18種類もの訳が登場したそうである(参照)

 これだけ、新たな訳が登場すると、今度は読むほうも困る。とてもとても、全部読み比べて、これが一番、などと軍配を上げるわけにはいかない。それに、原文がおいそれと読めないわれわれ一般大衆の場合、どれが一番原作に忠実で、原作の雰囲気を伝えているか、などと言われても判断のしようがない。

 通常、新訳が出るのは、日本語のほうの変化によって、昔の翻訳が時代に合わなくなったような場合が多いのだが、『星の王子様』 の場合に、岩波の独占的翻訳権の失効とともに、これほどいっせいに新訳が登場したというのは、それだけこの作品に思い入れのある人たちが多いということなのだろう。

 とりあえず、冒頭の部分だけをいくつか比べてみる。

 六つのとき、原始林のことを書いた 「ほんとうにあった話」 という、本の中で、すばらしい絵を見たことがあります。それは、一ぴきのけものを、のみこもうとしている、ウワバミの絵でした。  (岩波少年文庫 内藤訳)

 6歳の時、原始林のことを書いた 『ほんとうの物語』 という本の中で、ぼくはすばらしい絵に出会った。それは、ボアという大きなヘビが動物を呑み込もうとしているところの絵だった。  (中公文庫 池澤訳)


 
六歳のとき、ジャングルのことを書いた 『ほんとうにあった話』 という本の中で、すごい絵を見たことがある。それは一匹の獣を呑みこもうとしている大蛇の絵だった。  (宝島社 倉橋訳)


 僕が六歳だったときのことだ。『ほんとうにあった話』 という原生林のことを書いた本で、すごい絵を見た。猛獣を飲みこもうとしている大蛇ボアの絵だった。  (新潮文庫 河野訳)
 

 冒頭だけを比べてどうこう言うわけにはいかないが、一読して分かることは、岩波少年文庫版の内藤訳が、明らかに子供向けということを意識した 「です・ます調」 であり、そのためどうしても冗長な感じがぬぐえないのに対して、新訳のほうはいずれも語調が簡潔になっているところだ。倉橋の場合は、作中の一人称も 「ぼく」 ではなく、大人が公式の場で使う 「私」 となっている。

 これは、この作品が子供向けの童話やファンタジーではないという訳者の評価と、したがって、子供ではない、大人を含めたもっと年長の人々に、じっくりと読んでもらいたいという希望とを表してもいるのだろう。
 
 彼はもともと、大西洋を横断して南米とフランスを結ぶ、民間航空郵便会社のパイロットだったのだが、その頃の経験を描いた二作目の小説 『夜間飛行』 からちょっと引用する。

書きたまえよ、「監督ロビノーは、何々の理由により、操縦士ぺルランに何々の懲罰を命ず……」 と、理由は何でもかまわない、君が自分で見つけるんだ。

支配人さん!

いいから、僕の言うとおりにしたまえ、ロビノー。部下の者を愛したまえ。ただそれと彼らに知らさずに愛したまえ。


 これは、郵便会社の支配人ロビノーが、配下のパイロットと個人的に親しくしようとした監督を叱責する場面である。叱責されている監督は、操縦士らに対し、ときには危険が予測される中での飛行をあえて命じなければならない立場にある。だから、馴れ合いの関係を作ってはならない、馴れ合いの関係になったとき、人は冷静な目を失い、それがかえって危険を招くことにもなるだろう。支配人が言っているのは、そういうことだ。

 そういう理屈は分からないでもない。だが、わざわざ部下から嫌われるために、なんでもいいから適当な理由をつけて、部下に罰を与えろというのだから、話としてはずいぶんと無茶である。いい悪いは別としても、とても現代に受け入れられる話ではないだろう。

 この場面が、彼の実際の経験にもとづくものかどうかは知らない。ただ、こう書いたサン=テグジュペリ自身は、結局、40歳に達してすでに年齢制限をこえ、過去の事故での負傷もあって、無理だと止められたにもかかわらず、前線を視察する偵察機のパイロットを志願し、最後はドイツ軍機に撃墜されている。

 そのことは、上の作品では、部下の命を預かり彼らを危険にさらすという責任を負っているがゆえに、つね規律に厳しく、部下に対して冷厳な態度を崩さない支配人を現代の神のように理想化して描きながらも、彼自身はついにそのような態度を貫ける人ではなかったということの現れなのかもしれない。

 サルトルが序文を書いている 『冒険家の肖像』 という本を書いた、ロジェ・ステファーヌという人がいる。ステファーヌのこの本では、映画にもなったアラビアのロレンス、ことT.E.ロレンスや、『王道』、『征服者』 などを書き、ドゴール政権下では文化相を務めたアンドレ・マルローらが扱われている。

 ステファーヌのこの本ではサン=テグジュペリは扱われていないが、渡辺一民によれば、彼はこれとは別の戦後に書いた文章の中で、マルローとサン=テグジュペリについて、こんなふうに書いているということだ。

 ……当時リセ(高等中学)の寄宿生だった私は、あらゆる規律というものを嫌悪していた。サン=テグジュペリは私に、自由意志にもとづく規律のありうること、人間の運命はそうした規律のひとつを受け入れることによって決定されることを啓示してくれた。

 私をマルローとコミュニズムの誘惑へと導いていったのはサン=テグジュペリだったのである。人間が自分の生の混乱をひとつの規律にしたがわせることに同意するとき、その規律はとうぜん正義に役立つものであるはずだと、そのころ私は考えていたのだった。






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Last updated  2008.12.05 13:48:26
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