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カテゴリ:文学その他
時代を越えて長く読み続けられる海外の名作というものは、多くの人によって翻訳されるものだ。たとえばルイス・キャロルの 『不思議の国のアリス』 であれば、亡くなった矢川澄子のほかに、SF作家の福島正実や詩人の北村太郎、柳瀬尚紀など、実に多くの版が出ている。 これだけ、新たな訳が登場すると、今度は読むほうも困る。とてもとても、全部読み比べて、これが一番、などと軍配を上げるわけにはいかない。それに、原文がおいそれと読めないわれわれ一般大衆の場合、どれが一番原作に忠実で、原作の雰囲気を伝えているか、などと言われても判断のしようがない。 通常、新訳が出るのは、日本語のほうの変化によって、昔の翻訳が時代に合わなくなったような場合が多いのだが、『星の王子様』 の場合に、岩波の独占的翻訳権の失効とともに、これほどいっせいに新訳が登場したというのは、それだけこの作品に思い入れのある人たちが多いということなのだろう。 とりあえず、冒頭の部分だけをいくつか比べてみる。
冒頭だけを比べてどうこう言うわけにはいかないが、一読して分かることは、岩波少年文庫版の内藤訳が、明らかに子供向けということを意識した 「です・ます調」 であり、そのためどうしても冗長な感じがぬぐえないのに対して、新訳のほうはいずれも語調が簡潔になっているところだ。倉橋の場合は、作中の一人称も 「ぼく」 ではなく、大人が公式の場で使う 「私」 となっている。 これは、この作品が子供向けの童話やファンタジーではないという訳者の評価と、したがって、子供ではない、大人を含めたもっと年長の人々に、じっくりと読んでもらいたいという希望とを表してもいるのだろう。 書きたまえよ、「監督ロビノーは、何々の理由により、操縦士ぺルランに何々の懲罰を命ず……」 と、理由は何でもかまわない、君が自分で見つけるんだ。
そういう理屈は分からないでもない。だが、わざわざ部下から嫌われるために、なんでもいいから適当な理由をつけて、部下に罰を与えろというのだから、話としてはずいぶんと無茶である。いい悪いは別としても、とても現代に受け入れられる話ではないだろう。 この場面が、彼の実際の経験にもとづくものかどうかは知らない。ただ、こう書いたサン=テグジュペリ自身は、結局、40歳に達してすでに年齢制限をこえ、過去の事故での負傷もあって、無理だと止められたにもかかわらず、前線を視察する偵察機のパイロットを志願し、最後はドイツ軍機に撃墜されている。 そのことは、上の作品では、部下の命を預かり彼らを危険にさらすという責任を負っているがゆえに、つね規律に厳しく、部下に対して冷厳な態度を崩さない支配人を現代の神のように理想化して描きながらも、彼自身はついにそのような態度を貫ける人ではなかったということの現れなのかもしれない。 サルトルが序文を書いている 『冒険家の肖像』 という本を書いた、ロジェ・ステファーヌという人がいる。ステファーヌのこの本では、映画にもなったアラビアのロレンス、ことT.E.ロレンスや、『王道』、『征服者』 などを書き、ドゴール政権下では文化相を務めたアンドレ・マルローらが扱われている。 ステファーヌのこの本ではサン=テグジュペリは扱われていないが、渡辺一民によれば、彼はこれとは別の戦後に書いた文章の中で、マルローとサン=テグジュペリについて、こんなふうに書いているということだ。
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