自動車業界を始めとする製造業での派遣社員解雇は、いよいよ大きな社会問題になりつつあるようだ。浜松では、解雇されたブラジル人労働者らがデモを行ったそうだが、年末のこの寒風の中に、多くの者を解雇だけでなく、解雇とほとんど同時に寮からも出て行けとは、随分な話である。
当たり前のことだが、現場で働く労働者がいてこその企業というものだろう。島根県や大分県の知事など、各地の行政の長は、この問題に対して、職員の一時採用だとか他業種への採用の呼びかけなど、いろいろな策を練っているようだ。それはむろんないよりましだろうが、まず一番にすべきことは、寮や社宅からの即時退去というような暴挙に抗議し、撤回させることではないだろうか。
民間アパートのように、今の居住者を退去させたら、すぐ次の入居者を募集するというのならともかく、大量解雇ではそのような予定があるはずもなかろう。それなのに、なにを急いで、今この時期に大量のホームレスの発生が確実に予想されるようなことをする必要があるのだろうか。政府も地方の行政も、まずはそのような企業の処置に抗議すべきだろう。抗議しないということは、そのような処置を良しとし、瑕疵のない前例として認めることでもある。
前長野県知事で、今は 「新党日本」 とやらの党首と参院議員を務めている田中康夫は、党のHPで、「会社や組合という組織の都合ではなく、個人や地域という人間の未来に根ざした政治を求める、ユナイティッド・インディヴィジュアルズ=自律した個々人が連携するムーブメントなのです」 などとたいそうなことを言っているが、そんなものはただの自画自賛にすぎない。
一部の既成の組合やこれまでの労働運動に、下請け企業や臨時社員、派遣社員らの利害を無視した、「企業組合主義」 と呼ばれるような閉鎖性があったことは否定できまい。しかし、現在行われているような 「派遣社員」 という名による人間の使い捨てが可能になったのは、そもそも労働運動が弱体化したことに一つの原因がある。
そのような組織と運動の弱体化は、むろん歴代の指導者らや組織自体にも責任があるだろう。だが、田中のように、既成の組織を味噌とクソのように一緒くたにして、すべて 「既得権益者」 であるかのように一律に攻撃するのは、少なくともまだ存在しており、たとえ微力ではあっても、今なお社会的な抵抗の砦として役立ちうる組織の足元をさらに切り崩すものでしかない。
「自律した個々人」 などというと、なんだか聞こえはいい。しかし、たとえば 「国籍法改正」 問題で田中が実際にやっていたことは、「偽装認知奨励法、人身売買促進法、小児性愛黙認法」 などと、おのれの無知のみを根拠にしたデマゴギーを振り撒いて、おのれと同じ程度に無知な 「大衆」 を扇動するという、正真正銘のデマゴーグに相応しいことでしかない。既成の組織が様々な動脈硬化を起こしていることも否定はできまいが、田中のようなやり方は、いつの時代にもよくあるただの扇動家の手法にすぎない。
ところで、「科学」 というものが、あちこちで話題になっているようなので、一知半解の素人考えをちょっとだけ言ってみたくなった。
近代科学というものの起源がどこにあり、誰を祖とするかは面倒な話だが、一般にガリレオやケプラー、ニュートンあたりをその画期をなした人とすることには、たぶんそう異論はないだろう。
ガリレオにしろ、ニュートンにしろ、その時代の科学者のほとんどが、同時に神への信仰の篤い人であったことは言うまでもない。それは、むろん時代のせいでもある。しかし、彼らには、神と神が創りたもうた世界の秩序に対する信仰があり、同時に神によって、神に似せて造られた理性的存在である 「人間」 には、そのような秩序を知ることが可能なはずだという信念も所持していた(と思う)。
たとえばラッセルのお師匠であったホワイトヘッドという人は、『科学と近代世界』 という著書の中で、「広く人々の間に、事物の秩序、とくに自然の秩序に対する本能的確信がなければ、生きた科学はありえない」 と書いている。初期の科学者らにとってのそのような 「自然の秩序に対する本能的確信」 とは、ようするに、神によって創造された世界には必ず美しい秩序が存在するはずだ、という確信のことであった。
むろん、このような神とは、もはやギリシアの神々のようにお酒を飲んで酔って暴れるような神でも、イスラエルの神のように、些細なことで癇癪を起こして 「大洪水」 を引き起こすような神でもない。そのことを、ホワイトヘッドは 「エホバの人格的力とギリシャ哲学者の合理的精神とを併せ持つものと考えられた<神>の合理性を、中世の人々があくまで強調したことに由来する」 というように指摘している。
現在の科学は、中世の 「哲学」 の中から生じ、そこから分化したものである。ニュートンは、自分の主著に 『自然哲学の数学的諸原理』 という題をつけている。そこに違いがあるとすれば、彼ら科学者は、もはや中世の哲学者や神学者のように、抽象的な思弁だけで世界を理解し、それによって一挙に 「絶対的真理」 を把握するといった野望は持っていないということだけだ。
話はかわるが、星雲からの星の誕生を説いたことでも有名なカントは、『純粋理性批判』 の中で、神の存在を証明する論法として 「自然神学的証明」 と 「宇宙論的証明」、さらに 「存在論的証明」 の三つをあげている。
「自然神学的証明」 というのは、ようするに宇宙を含めた自然の素晴らしさや美しさに感嘆するところから始まる。夜空に瞬く星や野原に咲き乱れる花、色彩豊かな動植物などを見て、ほほぉーと感嘆し、そこに偉大な力の存在を感じて、これこそ神が創りたもうたものなり、と感激するということである。
次に 「宇宙論的証明」 とは、リンゴはちゃんと木から落ち、太陽は毎日ちゃんと東から昇り、決められたとおりに運行するというような世界の秩序正しさに感嘆するところから始まる。誰かが自分の作った設計図に従って、合目的的に世界を創造したのでないとすれば、なぜにこのように世界は秩序正しく進行し、存在しているのかということだ。
最後の 「存在論的証明」 というのは、デカルトも用いたもので、「神とは完全な存在である。完全であるということは 「存在」 ということを含む。したがって、神は存在する」 という、ようするに一種の詭弁でありただのトートロジーにすぎない。
ホワイトヘッドが指摘しているような、初期の科学者による自然探求の背後にあった 「確信」 とは、まさにカントが二番目にあげた 「神の宇宙論的証明」 に通じるものだろう。不可知論的な結論を引き出した量子力学に対して、アインシュタインが 「神はサイコロを振らない」 と言ったというのは有名な話である。もっとも、この場合はしゃれた言い回しという以上の意味はないだろうが。
たとえば、惑星の公転法則で有名なケプラーは、宇宙は音階と同じ調和的法則によって支配されていると信じていたピタゴラス主義者であった。そして、宇宙を支配する秩序に対するそのような強い信念があったからこそ、今のような望遠鏡もない時代に、視力がどんどん衰えるのも気にせずに、毎夜観測とそこから得たデータの計算に励み、その結果、画期的な業績をあげたのである。
しかし同時に彼は、星が人間の運命に影響を及ぼすことを信じて、占星術に凝るような魔術的人物でもあった。ニュートンもまた、晩年には交霊術にはまったことで有名である。だが、そもそも人間の活動というものは、すべてなんらかのそれ自体は非合理的な信念や情念に根拠を持つものである。それは、科学者の場合でも同じだろう。バルカン星人のようにつねに冷静であって、なんの情念も情熱も持たない者には、科学的真理を追究するというような面倒なこともできはしまい。
ただし、そのような研究者の背後にあり、彼らを研究に駆り立てた、非合理的な 「信念」や 「信仰」、「情熱」 と、その結果や成果の妥当性とはまた別の問題なのである。もしも非合理的な 「信念」 だけで暴走すれば、たとえニュートンのように、どんなに過去に業績をあげた一流の科学者であっても蒙昧に陥る。そういう 「落とし穴」 の存在は、今も昔も変わりはしない。
上で言ったように、科学的思考というものは、たとえ合理的であったとしても抽象的な思弁だけで一挙に 「絶対的真理」 なるものを獲得することを断念し、目前の経験から思考を始めることから始まる。そこで求められるものは、絶対的で普遍的な真理などではなく、あくまでも限定的な、しかしその限りにおいて確実な真理である。だから、科学的真理なるものが 「絶対的真理」 などではないことはそもそも自明のことなのだ。
ただ、科学というものに 「限界」 がないとすれば、それはその研究者たちによって、つねにその 「限界」 が意識されている限りのことでもある。なんの問題であっても、「限界」 を意識するということは、その 「限界」 を超えていくための前提である。それは、いつの時代でも、おのれの 「無知」 と 「未熟さ」 を知っている者のみが、その先へ進むことを許されるというのと同じことだ。