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カテゴリ:文学その他
仕事やなんやで忙しくて、日々の細かな報道にまで目を通す暇がなかったのだが、たまたまウェブをあちこちふらついているうちに、評論家の内村剛介がつい先日死去したということを知った。きっかけは戦前の中野と蔵原の論争についてちょっと調べてみようと思ったからで、先月の30日、今からちょうど1週間前の死去の知らせに気づいたのはまったくの偶然である。 1956年の帰国ということは、膨大な抑留者の中でも、最も長い期間をシベリアで過ごした一人だということだ。おそらくは、ロシア語に堪能なうえに、関東軍参謀部に勤務していたという経歴が災いしたのだろう。ちなみに、戦後に自殺した近衛文麿の長男である文隆とも同房で、彼の死にも立ち会ったそうだ。 「ソビエト脅威論」 をぶちまくった後年の言動はともかく、トロツキーの 『文学と革命』(今は岩波から別の訳者の版が出ているが)の紹介や、『呪縛の構造』 をはじめとする著作に収められた、満州時代から数えて足掛け20年ぶりの帰国で目にした 「戦後社会」 への怒りすらこめられた評論は、今でも十分に読むだけの価値があるといっていいだろう。 その後の内村のナショナリズムへの傾斜は、同年代の鮎川信夫や、やや年少の江藤淳とも共通するところで、それは昔からよくある年齢とともに進む 「故郷回帰」 のようにも見えるが、その根底には、過去に何もなかったかのように急速に変貌していく戦後社会に対する、戦争と政治によって最も翻弄された者としての怒りがあったことは間違いあるまい。 その昔、詩人で小説家でもある中野重治は、プロレタリア文学運動内部の論争で、「芸術に政治的価値なんてものはない、芸術にあるのは芸術的価値だけだ、....芸術評価の軸は芸術的価値だけだ」1 と言ったことがある。 また別の文章では、「芸術にとってその面白さは芸術的価値そのままの中にある。それ以外のものは付け焼刃でテズマに過ぎない。芸術的価値は、その芸術の人間生活への真への食い込みの深浅(生活の真は階級関係から離れてはいない)、それの表現の素朴さとこちたさによって決定される。」2 とも書いている。 中野が言ったことは、しごく当然のことなのだが、結局、彼はその主張を引っ込めざるを得なかった。そこには、論争相手が 「労働者の祖国」 であるソビエトとコミンテルン、さらに党中央の権威を振りかざしていたという背景があるのだが、今はそれは関係ない。 ただ、中野自身は明言していないが、「大衆の求めているのは芸術の芸術、諸王の王なのだ」3 という言葉に集約される彼の主張が、内村が紹介した、トロツキーの文学論と根底において共通するものであることは間違いない。推測すれば、それもまた、中野がこの論争において沈黙せざるを得なかった理由のひとつなのかもしれない。 だが 「芸術にあるのは芸術的価値だけだ」 という、まっとう過ぎるほどまっとうなことを言った中野が沈黙せざるを得なかったという事実そのものが、「芸術」 と 「政治」 は別のことでありながらも、けっして無縁ではありえないということを示している。それは 「地動説」 を主張したガリレオが、教会の権威の前に自らの主張を否認せざるを得なかったのと同じことだ。 とはいえ 「芸術」 と 「政治」 が別のことであることは、近代国家においては、ある意味すでに十分に認められている。親に捨てられ感化院で成長したあと、泥棒と逮捕を繰り返し、終身懲役刑の宣告を受けていたジュネは、その才能を惜しんだたコクトーらの嘆願によって、大統領から特赦を受け釈放された。 しかし、それは 「芸術」 と 「政治」 が別だからではない。そうではなく、「芸術」 と 「政治」 が別だからこそ、彼は法によって裁かれ、いったんは終身懲役の宣告を受けたのだ。「芸術」 と、「政治」 を含めた社会的責任の問題は別だということを裏から言えば、そういうことになる。 森鴎外は作家であると同時に軍医でもあった。斉藤茂吉は歌人であると同時に、精神科医でもあった。鴎外も茂吉も 「文学者」 であるのは、小説や短歌についてうんうんうなりながら創作し、発表している限りのことである。診療室で患者を診察し、医学関係の書籍を読んでいるときは医師なのであって、文学者ではない。 別に彼らのように二つの仕事を持っていなくとも、同じことはすべての芸術家について言える。「芸術家」 とはむろん人格的な存在であり、二十面相の仮面のように好き勝手に付け替えられるものではないにしても、それはあくまでも一人の人間が持つ、芸術に関する限りでの顔にすぎない。 ある人が芸術家であることは、他の問題についてのその人の責任を解除するものではない。だからこそ、作家であれ音楽家であれ、法に反したときは一般市民と同じように裁かれるのである、その場合、そこで裁かれるのは、芸術家ではなく一人の市民に過ぎない。 先月報道された、村上春樹のエルサレム賞受賞に対しては、いろいろな声がある。彼に対して、ガザ問題へのなんらかの意思表示を求める人もあれば、「彼は作家なのだから、ありがとうと言って貰ってくればいい。あとは作家としての仕事をすればよい」 という人もいる。むろん、最終的にどうするかは彼自身が決めることだ。それによって、ある者は失望し、ある者は安堵することになるだろうが、それは世界が様々な対立によって引き裂かれている以上、避けがたいことである。 一般的な話で言えば、「くれるものは貰っておけばいい」 というのは別に悪くない。それこそ、相手があとくされも何もない通りすがりの人であれば、それですむだろう。また、受賞が彼の文学的成果を高く評価したものだというのは、確かにそうかもしれない。そもそもこの問題で、村上に対しなんらかの意思表示を求めている人の中に、作家としての彼の評価自体にけちをつけている人などは一人もいない。 だが、賞というものは、むろん天から降ってくるわけではない。くれる人がそこにはちゃんといるのである。それをただ黙って受け取るということは、相手による評価を受け入れ、その権威を自己より上位のものとして認めるということでもある。一般的に言って、「贈与」とはそういうものである。そもそも問題は、エルサレム賞というものが、芥川賞・直木賞のような純然たる民間の賞とはいえないということだ。 1963年の第一回受賞者であるラッセル以下の、ほとんどノーベル賞級と言っていい錚々たる面々を見れば、この賞が単なる優れた作家・思想家に対する顕彰だけでなく、イスラエルによる国際的な宣伝と、国家としての名誉と権威の発揚という目的も持っていると見ることは、そう不当ではあるまい。(参照) たしかに、作家は小説を書くのが仕事である。人はおのれの最も得意とすることで、社会に貢献すればよいというのも、一般的に言う限りでは間違っていない。だが、「作家はその作品において社会に役立てばいい」 という素朴な論理は、たとえば 「党員は党員として、役人は役人として、兵士は兵士として、粛々とおのれの職務を果たしさえすればよい」 といった論理とどこか似ている。 スターリンの暴政を支えたのも、ナチのユダヤ人弾圧を支えたのも、そしていつの時代にでも様々な不正と不正義を容認し、あるいはときには加担さえしてきたのも、まさにそういう 「人はただおのれに与えられた任務をこなしてさえいればよい」 として、自己の職域以外のことには目を背け、また見て見ぬふりをすることを正当化する 「職域奉公論」 ではなかっただろうか。 かりに目の前に大怪我をしている人がいるとして、自分の詩は永遠の価値を持つ、自分の詩は多くの人の魂を救う、だから詩作のほうが大事だ、と言う詩人がいれば、それは当然のことながら非難に値する。「文学は飢えた子供の前で有効か」 とサルトルは問うたが、飢えた子にとって必要なのはむろんパンであって、一編の詩ではない。 日中戦争が勃発した直後、小林秀雄は 「戦争について」 という短文の中でこんなことを書いた。 戦争に対する文学者としての覚悟を、ある雑誌から問われた。僕には戦争に対する文学者としての覚悟というような特別な覚悟を考えることはできない。銃をとらねばならぬときがきたら、喜んで国のために死ぬであろう。僕にはこれ以上の覚悟が考えられないし、また必要だとも思わない。いったい文学者として銃をとるなどということがそもそも意味をなさない。誰だって戦うときは兵の身分で戦うのである。
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