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カテゴリ:文学その他
二葉亭四迷、本名長谷川辰之助といえば、いうまでもなく 『浮雲』 を書き 「言文一致体」 を創始した人である。二葉亭四迷という落語家のような筆名については、父親に文学をやりたいと打ち明けたところ、「おまえなんかくたばってしまえ!」 と怒鳴られたという話があるが、四迷自身によるとこれは 「苦悶の極、おのずから放った声が、くたばってしめえ!」 という自嘲に由来するものであって、親父殿に言われたということではないらしい。 しかし、若くしてこの 『浮雲』 を書いた後、彼は海軍に勤めたり、ロシア語の教師になったり、はてはハルビンや北京に行ったりと、創作を放擲して変転と遍歴を重ね、最後は朝日新聞から派遣されていったロシアでの無理のせいで肺炎にかかり、船で帰国する途中、ベンガル湾上で病死している。享年は45歳である。 上のエピソードが出てくる 『予が半生の懺悔』 という死の前年に発表された短文によれば、彼がもともとロシア語を学ぶようになったきっかけは、日本とロシアの間に樺太千島交換条約が結ばれたことだという。二葉亭は1864年生まれであるからこのときはまだ11歳だが、ロシアは他の列強と違って唯一日本と国境を接する 「大国」 であり、維新からまだ日の浅い日本にとって非常な脅威として受け取られていたことは想像に難くない。のちに最後の皇帝となったニコライが来日中、巡査に襲われた大津事件が起きたのは1891年のことである。 この文の中で、二葉亭は自分の中の 「維新の志士肌」 による 「慷慨熱」 と 「文学熱」 という二つの魂について語っている。その 「慷慨熱」 とは、半分は 「維新」 という革命の時代に遅れてきた早熟な青年が過去に対して持つ憧憬であり、また残りの半分は西欧に追いつき追い越せという急激な近代化の時代の中で、多くの青年が分かち持ったものでもあるだろう。その熱はいったんはロシア語を学ぶ中で知った文学によって収まったものの、やがてふたたび頭をもたげてくることになる。 この彼に一生とりついて離れなかった悩みについて、宮本百合子は 「生活者としての成長―二葉亭四迷の悲劇にもふれて」 という1940年に発表した評論の中でこう書いている。 二葉亭の苦悩は、文学というものがもし現在自分のぐるりに流行しているような低俗なものであっていいのならば、文学は男子一生の業たるに足りないものであるというところにあった。二葉亭自身は、人生と社会とになにものかをもたらし、人々になにかを考えさせ感じさせる 「人生の味わい」 をふくんだ文学を文学として考え自分の作品にそれだけのものを求めていた。しかし、日本の当時の文学をつくる人たちはそのような文学の使命を一向に感じず、求めようともせず、遊廓文学めいた作品をつくっている。……
実際、かりに彼がもう少し遅く生まれていて、尾崎紅葉らのかわりに漱石や鴎外といった作家による近代的な文学がすでに存在していたとしても、彼の中に巣くう 「二つの魂」 という分裂はおそらく解消されはしなかっただろう。二葉亭という人は自ら 「志士肌の慷慨熱」 と書いているとおり、山っ気の強い人ではあったかもしれないが、それは必ずしも百合子が言うような 「立役者として舞台の真中に華々しく登場しているということ」 を意味するものではあるまい。 いや、そういう百合子自身、17歳で登場して以来、新進作家として盛名をはせていたにもかかわらず、「プロレタリア文学」 運動に参加し、しかも多くのかつての 「同志」 が一時の熱病が覚めたかのごとくに次々と 「転向」 し、戦争への協力姿勢に転じていった中でも、時代への粘り強い抵抗と警告をやめはしなかった。つまり、彼女の中にも 「政治」 と 「文学」 という二つの魂は存在したはずである。 ただ、百合子が四迷ほどの相克に悩まされなかったのは、一面では彼女が文学の力と文学者の使命を彼以上に信頼していたからだろうし、他面ではその 「政治」 と 「文学」 という 「二つの魂」 が、ともに当時の 「共産主義」 という思想と運動が掲げていた 「人道」 的理想に対する信頼によって統一されていたからでもあるだろう。 その二つの信頼は、良家に生まれ、当時の女性としては珍しい高い教育と教養の裏打ちがあったればこそだろうが、また現実の 「社会主義国家」 がいかなる裏面を有していたかがさほど知られていなかった、時代の幸運というものもあったとは言えるかもしれない。 ただし、そのような 「社会的関心」 がただの神経過敏による、一時の熱にうなされ時代や流行に流されるがままのもので終わるのか、それともより長期的で確実な展望を持つことで、ときには時代に対する抵抗を支えるものともなりうるかどうかは、文学者である個人を支える思想や社会に対する目の確かさによって分かれるということになるだろう。それは文学そのものの価値とはいちおう別ではあるが、人間としての文学者の見識と行動にはおおいに関連する。 ちなみに、直接二葉亭の名前をあげてはいないものの、漱石はこの二葉亭を苦しめた悩みについて、「文芸は男子一生の事業とするに足らざる乎」 という文章を書いている。発表されたのは、二葉亭のものより半年ほど遅れているが、この問題はどうやら当時の文壇やその周辺での一種の論題となっていたらしい。
二葉亭は1904年に、漱石はその三年後の1907年に朝日新聞に入社しており、新聞に交互に作品を連載するなど、一種のライバル的関係にあったようだが、二人の間に具体的にどのような関係があったのかまでは分からない。なお、二葉亭の 「予が半生の懺悔」 という短文は、次のような言葉で締められている。 明治三十六年の七月、日露戦争が始まるというので私は日本に帰って、今の朝日新聞社に入社した。そして奉公として 「其面影」 や 「平凡」 なぞを書いて、大分また文壇に近付いては来たが、さりとて文学者に成り済ました気ではない。やっぱり例の大活動、大奮闘の野心はある――今でもある。 だが、それをたんなる一時的な 「社会的野心」 の表れとのみ見るのは、いささか早計に過ぎるだろう。つまるところ、彼にとりついていた悩みとは、「ライフ、ライフというが、ライフた一体なんだ」 という悩みなのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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