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カテゴリ:思想・理論

 気がつけば、すでに三月である。ウグイスの声は聞かないが、あちこちで梅もちらほらと咲いている。まさに 「一寸の光陰軽んずべからず」 である。もっとも、これはちょっと季節が違うが。

 一月はわずか三本、二月はやっぱりわずか四本しか書けなかった。おかげで、20万アクセスを目前にしながら、日記の記入率は日ごとに下がり続けている。とはいえ、これでもまだまだ麻生内閣の支持率よりはましなようである。しかし、せめて週に二本ぐらいはなにか書きたいと思うのだが、仕事が忙しかったりするとそうもいかない。

 人類学者として知られるレヴィ=ストロースは1908年の生まれだが、誕生日は11月28日だそうで、昨年めでたく100歳の誕生日を迎えたそうだ。ちっとも知らなかった。これは、たまたまいくつかのサイトで知ったのだが、そもそもまだご存命だとは、全然思わなかったのだ。(参照) (参照)

 なにしろ、彼の同時代人であったサルトルもボーボワールもとうに死んでいる。カミュやメルロ=ポンティはもっと前に亡くなっているし、ニザンなんて第二次大戦で戦死したくらいだ。彼より若いフーコーですらもう死んじまったというのに、まだお元気だとはまったく思ってもみなかった。

 レヴィ=ストロースは1935年、戦争の危機が迫るヨーロッパから逃れるようにして、ブラジルに新設されたサン・パウロ大学に赴任し、そこで4年間を過ごしている。このときに、休暇を利用して熱帯雨林の中に住む先住民らの生活に触れたことが、もとは一介の哲学教師であった彼を、やがて世界で最も有名な人類学者へと変貌させることになる。

 このときの体験をもとに書かれたのが 『悲しき熱帯』 であるが、その中で彼はこんなことを書いている。

 そのとき以来、この熱中は一度も変質したことはなく、私はなにかある社会学か民族学の問題にとりくむ時には、ほとんどいつも、あらかじめ、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』や『経済学批判』の何ページかを読んで、私の思考に活気を与えてから、その間題の解明にとりかかるのである。

 しかし、私にとっては、マルクスが、歴史のかくかくの発展を正しく予見したかどうかを知ることが問題なのではない。マルクスは、物理学が感覚に与えられたものから出発してその体系を築いていないのと同様、社会科学は、事象という次元の上に成り立つのではないことを、ルソーに続いて、私には決定的と思われる形で教えてくれたのである。

 社会科学が目的としているのは、ひとつのモデルを作り、そのモデルの特性や、そのモデルの実験室でのさまざまな反応を仕方を研究し、ついで、これらの観察の結果を、経験できる次元で起こることがらの解釈――それは予見されたものからひどくへだたっていることもありうるのだが――に適用することなのである。

 ここで彼が言っていることは、たとえばガリレオを例にすれば、彼によって確立された力学的世界観ということになるだろう。ガリレオは言うまでもなく近代物理学の父とも言うべき人であり、ピサの斜塔で落下実験をしたとかしないとかいう話もある。

 経験科学では、実験がなによりも基本的な方法とされていることを考えると、「物理学が感覚に与えられたものから出発してその体系を築いていない」 というレヴィ=ストロースの言葉は、いささか奇矯に聞こえるかもしれないが、彼はなにも、科学の経験性を否定しているわけではあるまい。

 ベーコンは 「実験とは自然を拷問にかけて、真実を自白させることだ」 という意味のことを言ったそうだが、ガリレオだって、ただめったやたらと意味もなく実験をやっていたわけではないだろう。ガリレオの力学は、空気の抵抗や物質間の摩擦を無視して、理想的な物理的状態を構想し、それを数学的に表すことではじめて成立したものだ。

 同じことは、ルソーやホッブズの 「社会契約論」 についても、マルクスの 「純粋資本主義論」 や 「価値形態論」 についても言える。それは、レヴィ=ストロースが言うように、「感覚に与えられたもの」 のみから出発しているわけではない。

 それは、まさに彼が言うように、「現実」 を土台にしながらも、「現実」 とは別個に作られた、ひとつのモデルなのである。ちなみに、マルクスは 『資本論』 の序文で、「経済的諸形態の分析では、顕微鏡も化学的試薬も用いるわけにはいかない。抽象力なるものがこの両者に代わらなければならない」 と言っている。

 村上春樹の例のスピーチを受けて、ネットの一部で、人間がシステムを作るのか、いやシステムが人間を作るのか、みたいな話があるが、そのレベルの議論は、いわば卵が先かニワトリが先かのような話で、ほとんど意味のないことだ。

 いかなる 「システム」 も、人間とその行為なしに存在するわけがないのは自明のことである。その意味では、「システム」 は人間が作るものだ。ただ、厄介なのは、人間は必ずしも意識して 「システム」 を作るわけではないということだ。
 
 そうやって出来上がった 「システム」 のもとでは、得をする者もいれば、損をする者も出てくるだろう。だが、それは 「システム」 の成立と、その運動によって生じた結果なのであって、「システム」 自体が、そもそもそれによって得をするであろう人々らによって、そのために作られたということは意味しない。

 たとえば、資本主義という 「システム」 ひとつをとってみても、それはある時代にある地域で生まれたものだということはできる。しかし、そのような資本主義という 「システム」 は、それで一儲けしてやろうと企んだ、どこかの悪知恵の働く人らによって作られたわけではない。そのような 「システム」 の持つ匿名性というものは、言語といったものを考えれば、なおさら明らかになるだろう。

 あのスピーチで、村上が 「システム」 という言葉で表そうとしたものはいったいなんだったのかというのは、いろんな解釈が成り立つだろう。だが、とりあえず 「システム」 というものは、個々人の恣意によって作られるものではなく、間主観的=共同主観的な存在であるということになるだろう。それは、ヘーゲルの言葉で言えば 「客観的精神」 ということになる。

 それは、たしかに人間によって作られたものではあるが、個々の人間の意志によって作られたものではない。一般的に言うならば、「システム」 とは、むしろ歴史の中で、人間と人間が必然的に取り結ぶ関係の中から生まれたものであり、そのような関係が客観的な存在として目に見えるように凝固したものということができるだろう。

 そのような 「システム」 が人間を支配している状況をマルクスは 「疎外」 と呼び、そのような本来の人間的緒力が人間自身に対立している状況の根源には 「私的所有」 があるとみなし、その廃棄によって、そのような 「疎外」 状況も廃絶できると考えたわけだが、周知のように、ロシアでの実験はうまくいかなかった。

 そこには、文化的に遅れたロシアという国の問題もあったろうが、はたして 「私的所有」 の廃棄によって、「システム」 とそこで現実に生きている具体的な人間の対立という状況そのものが廃棄できるのかという問題は、残念ながら未解決のままである。

 それは、言い換えれば、個々に見れば偶然でありながら、同時に必然的に生じるものでもある、人間と人間が生活の中で互いに取り結ぶ関係の中から生まれてくる様々な 「システム」 というものを、人間ははたしてマルクスが考えたように、「疎外」 的な状況なしに、理性によってうまく統御できるのかという問題ということになるだろう。

 レヴィ=ストロースは 『野生の思考』 の最終章で、サルトルを手厳しく批判したが、その批判の中心は、実存哲学に基づいたサルトルの人間観が、近代的な 「理性的人間」 という存在をあまりに特権化したものであるということにある。

 サルトルには、「人間は自由の刑に処されている」 という有名な言葉があるが、そのような極度に倫理的で主体主義的な人間観は、いうまでもなく 「近代」 を前提にしたものである。

 戦後のサルトルの仕事は、そのような主観的で非歴史的な自己の哲学と、あくまで人間と社会の歴史性に基づいたマルクスの思想を接木しようというところにあったわけだが、それがうまくいかず、彼自身、最終的に放棄せざるを得なかったのは、いわば当然のことと言うべきだろう。

 ちなみに、レヴィ=ストロースがあげたマルクスの 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』 には、「歴史は二度繰り返す、ただし一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」 とか、「よく掘った、老いたるモグラよ!」 など、様々な名文句があるが、冒頭にはこんな一節もある。

 人間は自分自身の歴史を作る。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとでではなく、すぐ目の前にある、与えられ持ち越されてきた環境のもとで作るのである。死せるすべての世代の伝統が、夢魔のように生けるものの頭脳を押さえつけている。






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Last updated  2009.03.08 06:19:05
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