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カテゴリ:社会
夏の定番といえば、一にお祭り、二に花火、三四がなくて五に怪談ということになるだろう。古典的な怪談といえば、なんといっても夫の伊右衛門に毒を盛られて目の上を腫らしたお岩さんが登場する 「四谷怪談」 が有名だが、ほかにも、「一枚、二枚、三枚...」 と皿を数えては、最後に 「一枚足りない」 と恨めしげに語る、お菊さんの幽霊で知られる 「番町皿屋敷」 や 「牡丹燈篭」 の話も有名である。 そのほかにも、江戸時代には行灯の油が大好きという化け猫で有名な、佐賀の鍋島騒動の話もあるし、明治になれば、そのものずばり小泉八雲の 「怪談」 というのもある。「高野聖」 などを書いた泉鏡花にも様々な怪談話があるし、夏目漱石の 「夢十夜」 にも、いささか怪談じみた話が多い。ただし、Wikipediaによれば、最初にあげた三つが日本三大怪談ということになっているようだ。 それだけに、人々には仏教などのありがたい教えに救いを求める気持ちも強く、したがって寺の僧侶らがとく因縁話も、おそらくは誰一人ちゃかすことなく真面目に信じられていただろう。村の古老とかが話して聞かせただろう妖怪変化などの伝説の類だって、とてもリアルなものであって、その恐ろしさを味わうなんて心の余裕は、とうていなかったに違いない。 つまり、話の怖さそのものを楽しむ 「怪談話」 というものは、そのようなお話が本当にありうるとはもはや受け取られない時代になって、はじめて成立したということになる。「恐ろしさ」 を味わうというのは、「恐ろしさ」 そのものをベタに受け取るのではなく、たとえその場では無理だとしても、「恐ろしい」 という自分の気持ちをさらにメタに見ることができるようになって初めて可能なのだ。 事実、「四谷怪談」 にしても 「番町皿屋敷」 にしても、本当にこわいのは化けて出てきたお岩さんやお菊さんではなく、仕官の話に目がくらんでお岩に毒を持った伊右衛門や、お菊に濡れ衣を着せて惨殺したお殿様などのように、生きている人間のほうである。つまり、このような怪談は、ほんとうは幽霊の恐ろしさではなく、人間の欲望の恐ろしさや、業の深さをえがいたものなのである。 だから、その 「恐ろしさ」 は、劇を見ている人間自身の恐ろしさでもあるということになる。そこでは、そのような 「怪談」 が本当にありうるかどうかは、もはや問題ではない。そこで出てくる幽霊は、人間がみな持っている恐ろしさの象徴であり、人間の業というものがひとつの実体として、目に見えるものに 「化体」 したにすぎない(哲学的に言うと、これは一種の 「疎外論」 である)。 さて、いよいよ選挙もたけなわであるが、ある政党からこんなパンフレットが出ているそうだ。 知ってドッキリ民主党 これが本性だ!! このパンフを作成した連中がこんな馬鹿話を本当に信じているとしたら、彼らはただのアホウということになる。しかし、もし自分では信じてもいない話を、こんなにでかでかと宣伝しているのだとしら、それは彼らが、この国の大衆なんて、この程度の馬鹿話で簡単に丸め込むことができると思っているということになるだろう。
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