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カテゴリ:思想・理論
批評家の柄谷行人が、『探求II』 の中で次のようなことを書いている。 ところで、子供に死なれた親に対して、「また生めばいいじゃないか」 と慰めることはできないだろう。死んだのはこの子であって、子供一般ではないからだ。しかし、子供や妻が家畜と同じ財産と思われているような社会では、それが可能であるように見える。 たとえば、『ヨブ記』 では、神の試練に対して信仰を貫いたヨブは、最後に妻および同数の子供(男七人と女三人)とより多くの家畜を与えられる。しかし、どうしてそれで償われたといえるだろうか。死んだあの子が取り戻されたわけではないのだ。『ヨブ記』 を読んだ後に残る不条理感はそこにある。
無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえたとき、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。あなたがもし知っているなら、誰がその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。その土台はなにの上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。......
柄谷は、上に引いた文に続けて、「ヨブにとっては、妻子は家畜と同じ財産であり、したがって右のような疑念は生じないのである。」 と言っている。たしかに、前近代的な家父長制にはそのような側面があることは否定できない。しかし、全能の神にとって、人間が 「代替可能」 なただの頭数にすぎないのは当然だし、ヨブとしては、神に文句をつけるわけにいかぬのもしかたのないことだろう。 なので、この柄谷の言葉はいささか筋違いのように思える。実際、子を失ったヨブは激しく悲嘆したのだし、羊やらくだなどの家畜が二倍返しを受けたのに対し、子はなぜか前と同じ人数で返されている。家畜が二倍返しを受けたのは、それがまさに頭数でしかないからだろう。だから、家畜が二倍に増えたことは、ヨブにとって喜ばしいことである。 だが、子の数が前と同じだということは、「ヨブ記」 の作者にとっても、またヨブにとっても、子は家畜と同じ、ただ頭数だけで数えられる存在ではないということを暗示してはいないだろうか。もし、そうであるなら、神は子も家畜と同様に、前の二倍に増やして返してあげればよかったはずである。 たしかに、柄谷が言うように、新たに生まれた子は、死んでしまった前の子と同じではない。だが、「生」 と 「死」 を一種の交代とみること、すなわち、新たに生まれる者を前に死んだ者の 「生まれ変わり」 とみる観念は珍しいものではない。たとえば、大江健三郎も、『「自分の木」 の下で』 というエッセイの中で、幼い頃、熱を出していたときに、母親から 「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。」 と言われたという話を書いている(フィクションかもしれないが)。 それはつまり、この 『ヨブ記』 の記述は、自然(あるいは神)の前には、人間は 「代替可能」 なものでしかないという 「死」 の必然性と、それにもかかわらず、固有の人間は固有の人間にとって 「代替不可能」 なものであるという人間の意識との間の微妙なバランスの上に成り立っているということだ。 さて、『ヨブ記』 についてのこの柄谷の感想は、言うまでもなく、小林秀雄の 『歴史と文学』 という講演を下敷きにしている。これは、日中戦争が長引くなかで、対米関係が悪化していった時期、ちょうど太平洋戦争が始まる半年ほど前に行われ、その後、雑誌 『改造』 に掲載されたということだ。 歴史は決して二度と繰返しはしない。だからこそ僕等は過去を惜しむのである。歴史とは、人類の巨大な恨みに似ている。歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念というものであって、決して因果の鎖というようなものではないと思います。それは、たとえば、子供に死なれた母親は、子供の死という歴史的事実に対し、どういう風な態度をとるか、を考えてみれば、明らかなことでしょう。
かつて、レヴィ=ストロースは 『野生の思考』 の最終章で、サルトルを相手取って、次のような批判を加えた。 だから、わたしが民族学にあらゆる探求の原理を見出したのに対し、サルトルにとっては民族学が、乗り越えられなければならぬ障害、粉砕すべき抵抗という形で問題を作り出すものとなるのは納得できる。なるほど、人間を弁証法によって定義し、弁証法を歴史によって定義したとき、「歴史なき」 民族はどういう扱い方ができるのか? (P298) この批判が 「サルトルに対して」 という意味であたっているかはともかく(なにしろ、サルトルの 『弁証法的理性批判』 はむちゃ長い)、人間の「代替不可能性」 という問題を 「近代的自我」 だの 「自我肥大」 だのという問題に解消してしまうことは、結局のところ、レヴィ=ストロースが言うように、近代人と未開人の思考の間に和解不能な線を引くことであり、われわれにとって、未開人なるものをわれわれとはまったく異なった了解不能な存在とすることに等しい。 ひところ流行った 「自分探し」 という言葉は、昨今では 「中二病」 扱いされるなど、あまり評判がよろしくない。たしかに、これは言葉としてはあまりに薄っぺらだし、猫も杓子も 「自分探し」 といった流行ともなると、いささか辟易もさせられる。それに 「自分探し」 ばかりで振り回されるのは、一種の 「自我肥大」 ではあるだろう。 だが、「自我」 の病というものは、人間の固有の病ともいうべきものだ。「病」 というものはむろんよろしくないし、できるならばそんなものには罹らないほうがよい。もしも、罹ってしまったのなら、できるだけ早いうち、重くならないうちに回復したほうがよくはある。とはいえ、そのような病が、人間という存在そのもののうちに深く根ざしているのだとしたら、それはただ否定するだけですむものではない。 たとえば、2000年以上も前に王族の家に生まれながら、その地位を投げ捨て、修行と放浪の旅に出たお釈迦様もまた、やはり 「自分探し」 の旅に出たのではなかったのだろうか。つまるところ、「自分探し」 というものは、古くて新しい問題なのだから、そう簡単に馬鹿にできるものでもないということだ。むしろ 「ふんっ」 などと鼻の先で馬鹿にする者こそが、いずれそれによって報いを受けることにもなりかねないだろう。 参照: 「死んだ子供」 を大切にしてください ブログ 「地下生活者の手遊び」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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