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カテゴリ:思想・理論
「認知的不協和」(cognitive dissonance)とは、人が自身の中で互いに矛盾する認知を同時に抱えた状態だとか、そのときに覚える不快感を表す社会心理学の用語で、アメリカの心理学者レオン・フェスティンガー(1919-1989)という人が提唱したのだそうだ。 この人によれば、「認知的不協和」 が存在すると、その不協和を軽減し除去するための心理的圧力が生じ、その結果、どちらかといえば不都合な一方の要素が無意識のうちに修正されて、「不協和」 な状態が軽減されたり除去されるということだ。 この理論の説明でよく言及されるのが、イソップ寓話にある 「キツネとブドウ」 の物語である。これは誰でも知っているだろうが、ある日、美味しそうなブドウがなっているのを見つけたキツネが、一生懸命とびあがって獲ろうとしたものの、どうしても届かない、それで最後に 「どうせあのブドウは酸っぱいんだ」 といって諦めたという話である。 キツネとしては、一方に 「渇いたのどを潤したい」 という欲求があり、他方に 「美味しそうなブドウ」 が樹になっているぞ、という認知がある。ところが、どうしても届かないため、「美味しそうなブドウ」 という認知を 「すっぱいブドウ」 という認知に変えることで、ブドウに対する欲求を断念したというわけだ。 この場合、キツネとしてはどうしても手に入らないブドウのことでいつまでもうじうじしているよりも、さっさと諦めて、別のものを探したほうが現実的であり生産的でもある。なので、「それは現実逃避だ!」、「事実から目をそらした自己正当化だ!」 などといってことさらに非難する必要はあるまい。 そもそも人間、なんでもかんでも可能なわけではないのだから、理屈がどうであれ、そのような心理的機制によって、かなえられない欲望がおさまり、心理的な安定が得られるのであれば、それはそれでよい。これに限らないが、人間の心というものはなかなかよくできている。 しかし、問題は 「認知的不協和」 の対象がブドウのような物ではなく、「他者」 という人である場合。その場合、これはしばしば過大な 「自己評価」 の幻想による維持を意味し、その結果、「他者」 とのコミュニケーション不全をもたらすおそれも出てくる。 人間にとっては、たしかに自己の精神的安定が第一なのだから、競争や争いに負けたときに、「本気じゃなかったんだよ」 とか 「おれだってやればできるんだよ」 などといって自分を慰めるのはしかたあるまい。ただ、そういうことはあくまで内心にとどめておくべきで、公言してしまっては恥ずかしい。 吉本新喜劇の池乃めだかの 「今日はこれぐらいにしといたるわ」 というギャグが受けるのは、それがただの 「負け惜しみ」 であることが誰の目にも明白だからだが、よく考えると、たいていの人はそれと大差ないことをどこかでやっている。 自分が人から批判されるのは、彼らがわたしを妬んでいるからだ、という理屈で自分を納得させるのもそうだし、自分が誰にも相手にされないのを、自分はみなに一目置かれているのだというようにすりかえて自分を慰めるのもそうだ。こうなると、もはや病膏肓の域に近づいてくる。これは、もはやただの 「自我肥大」 か 「自意識過剰」 にすぎない。 これが意味するのは、自己と自己をめぐる状況について客観視ができないということだ。そして、そのような 「自己客観視」 の不能は、ただの自己正当化による 「認知的不協和」 の解消にますます拍車をかけることになる。その結果、ニワトリとタマゴのような関係が生じ、どっちが原因でどっちが結果なのか、もはや分からない状態になってしまう。 これはとくに自尊心の高い人ほど陥りやすいものだが、そのことはつまり、この 「病」 はかならずしもたんなる 「劣等感」 の所産とは限らないということ、言い換えると、それなりに高い才能や能力を有する人でも、このような 「病」 に罹患するおそれはあるということを意味する。実際、漱石や芥川のような才人であっても、こういう 「病」 から完全に逃れることはできなかったのだから。 漱石と並べるわけではないが、最近で言うなら、五輪招請の失敗をめぐる、石原都知事のブラジルとフランスなどとの裏取引を示唆するかのごとき発言もそうだろう。彼の過去の発言を振り返ると、招請失敗の最大の責任は彼自身にあるとしか思えないのだが、結局、彼はそういった事実や現実を認めたくないために、無意識に 「認知」 の修正をやって、責任をよそに転嫁しているにすぎないように思える。 ところで、今日10月10日は中国では双十節と呼ばれ、1911年に長江中流の都市、武昌(現在は対岸の漢口との合併によって武漢となっている)で、政府による鉄道国有化政策をきっかけとして軍隊の蜂起が起こり、全国に波及して清王朝が倒れた辛亥革命が始まった日でもある。 以下は、「日本改造法案大綱」 を書いて陸軍を中心にした青年将校らに影響を与えたため、2.26事件の首謀者として処刑された北一輝の 『支那革命外史』 序からの引用である。
文中、「相抱いて淵に投じた二人」 とは、薩摩藩の開明的藩主島津斉彬が急死したのち、錦江湾にともに身を投げた西郷隆盛と僧月照のことを指しているのだろう。月照は安政の大獄で幕府から終われる身となり、西郷とともに京都から薩摩に逃亡したが、斉彬の死による藩政の変化により追放を命じられたたため、悲観して西郷とともに身を投げたということだ。 北のこの書のすぐれている点は、列強の進出に苦しむ 「後進地域」(今ふうに言えば 「第三世界」)における革命運動が、ときとして排外的でもあるナショナリズムの高揚を伴うことの必然性を理解していたところにある。それは、いうまでもなく幕末の倒幕運動が攘夷からはじまったことの意味を、彼が正確に認識していたからでもある。 彼が、アメリカかぶれの孫文を評価せず、その最大のライバルであった宋教仁を支持したのはそのためだが、その結果、上海で起きた宋教仁暗殺の黒幕を、袁世凱ではなく孫文だとしたのはいただけない。しかし、それもまた、イソップのキツネと同じ 「認知的不協和」 のもたらしたものなのかもしれない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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