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カテゴリ:思想・理論
気象学にバタフライ効果という言葉がある。Wikipediaによると、これはエドワード・ローレンツという人が1972年にアメリカ科学振興協会でおこなった講演のタイトル、『予測可能性-ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか』 に由来するということだ。 これはむろん一種の比喩であり思考実験なのであって、どこかでの蝶のはばたきが、実際につねにどこかに竜巻を引き起こすというわけではあるまい。だいいち、そんなことがあちこちでしょっちゅう起きていては、たまったものではない。 難しい数学はちんぷんかんぷんだが、ようするにカオス理論なるものによれば、「カオスな系では、初期条件のわずかな差が時間とともに拡大して、結果に大きな違いをもたらす。そしてそれは予測不可能」 ということらしい。いや、そういうふうに言われても、やっぱりよく分からない。 昔の人は、「風が吹けば桶屋が儲かる」 と、なかなか洒落たことを言った。これは、「大風で土ぼこりが立つ → 土ぼこりが目に入って盲人が増える → 盲人は三味線を買う → 三味線に使う猫皮が必要になりネコが殺される → ネコが減ればネズミが増える → ネズミは桶を囓る → 桶の需要が増え桶屋が儲かる」 ということらしい(ネコさん、ごめんなさい)。 世界は様々な事象で満ちている。無から有はけっして生じないのだから、いかなる事象も、必ずどこかに原因を有する。上の命題は 「風が吹く」 で始まっているが、その風だって、吹いたのには、誰かが大きな口をあけてふーと吹いたか、吸い込んだか、あるいは台風の接近だとか、なんらかの原因によって気圧の差が生じたことによる。 そういう因果の連鎖をたどっていけば、それこそ宇宙がドカンと誕生したというビッグバンにまで遡るだろう。それに、風が吹いた結果のほうも、「桶屋が儲かる」 で終わるわけではない。たとえば、「桶屋が儲かると、近在にその噂が広まる → 噂を聞いて盗人が押し込みにくる」 などというように、その結果はさらに未来に向かって続いていくだろう。 いや、それだけではない。あるひとつの事象を決定する原因はたったひとつではない。ボールが窓に当たったとしても、それで実際に窓が割れるかどうかは、ガラスの厚さや強度、当たったボールの硬さや速度にも左右される。 それに、ひとつの事象から、枝分かれするようにいろいろな結果が同時に生まれることもあるだろう。世界の中では、いまここで風が吹いているだけでなく、その横ではカラスがカーと鳴き、ネコがニャーと鳴いているかもしれない。田中さんの家では夫婦喧嘩の真っ最中だが、公園では若いカップルがいちゃいちゃしているかもしれない。 世界の中では、つねに複数の事象がたがいに関連しながら、あるいは独立しながら、同時多発的に発生している。そして、そのような事象は、場合によってはたがいに影響を及ぼしながら、時系列にそって発生し、変化し、あるいは消滅する。これはまさに混沌とした世界である。 たとえば、17世紀にオランダにいた哲学者のスピノザはこんなことを言っている。 定理28 あらゆる個物、あるいは有限でかぎられた存在を持つあらゆるものは、自分と同じように有限でかぎられた存在を持つ他の原因から、存在や作用へと決定されることによって、はじめて存在することができるし、また作用へと決定されることができる。 さらにこの原因も同じように有限でかぎられた存在を持つ他の原因から、存在や作用へと決定されることなしには、存在することもできないし、また作用へと決定されることもできない。このようにして無限に進む。
そのような長大で、しかも相互に絡み合っている複雑な連鎖の計算は、どんなに巨大な計算機をもってしても不可能だという技術的理由はともかくとして、すべての事象の連鎖が世界が誕生した時点で決定されていたと考えるのは、どう考えても無理だろう。結果から原因を探ることは可能だとしても、因果によって生じる結果なるものは、つねに一義的とは限らない。そこにはつねにいくらかの幅や揺らぎが存在する。もっとも、全能の神様ならば、そのすべてを予見していたかもしれないが。 それに、いったん成立した個々の事象や存在は、ただ外的要因によって左右されるだけでなく、程度の差はあれ、自律的な自らの 「本性」 も持っている。煌々とともる電灯に集まってくる蛾や蚊のみなさんには、光の誘惑に抵抗するだけの自由はないのかもしれないが、彼らとて、たんなる刺激に対する反応によってのみ生きているわけではないだろう。 話はがらっと変わるが、のちにスターリンによって 「右翼的偏向」 と批判され、最後には 「裏切者」 の汚名を着せられて処刑されたブハーリンは、『過渡期経済論』 の中でこんなことを書いている。
ところで、スピノザというと、「空中に投げられた石にもし意識があれば、自分の自由意志で飛んでいると思うだろう」 と言ったとかいう話があり、これは人間の意志の自由を否定したものと解釈されている(中公版の 『エティカ』 にはたしかに石を使った比喩はあるのだが、この言葉は見つからなかった。はて?)。 しかし、彼は人間の自由というものをすべて否定したわけではない。実際、『エティカ』 には、「自由な人間はなによりも死について考えることがない。そして彼の知恵は、死についての省察ではなく、生きることについての省察である」 というような定理もある。 「限界」 を超えるための前提は、まずその 「限界」 がどこにあるかを知ることだ。同様に、自分が抱えている 「偏見」 や 「偏向」 から自由になるために必要なのは、そのような 「偏見」 や 「偏向」 をまず自覚することだ。それは、無意識の抑圧の意識化による解消という、フロイト先生が提唱した 「精神分析」 でもたぶん同じことだろう。
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Last updated
2009.10.21 18:04:40
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