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カテゴリ:ネット論

  以前、サルトルの 『嘔吐』 に出てくる 「独学者」 なる人物にふれて、「サルトルの 『嘔吐』 をちらちらと読み返してみた」 なる雑文を書いたことがある。そこで引用した 『嘔吐』 の箇所をもう一度ひいてみる。なお、引用文中の 「彼」 とは、この 「独学者」 を指している。

彼は目で私に問いかける。私はうなづいて賛意を評するのだが、彼がいくらか失望したということ、彼が欲したのは、もっと熱狂的な賛同だったということを感じる。私に何ができようか。彼が私に言ったことのすべての中に、人からの借り物や引用をふと認めたとしても、それは私が悪いのだろうか。

言葉を質問形にするのは癖なのである。じっさいには断定を下しているのだ。優しさと臆病の漆は剥げ落ちた。彼がいつもの独学者であるとは思われない。彼の顔つきは、鈍重な執拗性をあらわしている。それは自惚れの壁である。

 ウェブにはこの種の人は珍しくない。なにしろ、ちょっとした手間と暇さえかければ、誰でも簡単にネット上にホームページやブログを作成して、そこになにやら 「独創的」 な研究成果を発表するぐらいのことはできるからだ。正直に言うと、昔、傾倒していた人を扱ったこの手の 「論文」 を見かけ、いささか感じたことがあったため、しばらくメールでやりとりしたこともある。

 最初から、表面上はていねいな言葉の中に、なにか傲慢さを感じさせる 「慇懃無礼」 な雰囲気があって、???という気もした。なので、そこでやめとけばよかったのだが、ついつい疑問点をいくつか並べて書き送ったところ、いきなり 「あなたはまだまだ勉強が足りないようですね」 といった類の傲岸不遜な返事が返ってきた。どうやら、その人の自尊心をいたく傷つけてしまったようであった。

 別に、「独学者」 一般を誹謗するつもりはないし、勉学や研究の環境が整わない中で 「独学」 を続けるということは、むろん賞賛さるべきことではある。しかし、サルトルも指摘しているように、「独学者」 にはしばしば 「夜郎自大」 という痼疾がついてまわる。いったい、それはなぜなのか。

 以前の記事では、「それは 「独学」 という行為が必然的に孤独な作業であることから来るものだろう」 と書いたが、どうもそれだけではなさそうだ。じっさい、すべての 「独学者」 がそのように夜郎自大というわけではない。むしろ、それは個々の 「独学者」 が 「独学」 を続けているモチーフ、それもおそらくはその人自身も気づいていない、もっと奥の秘められたところ、一言でいえば 「自尊心」 の満足ということにあるような気がする。

 「自尊心」 というものは、たしかにだれもが有するものであり、その満足は人間の本源的な欲求のひとつでもある。そして、「独学者」 にとって、もっともその 「自尊心」 を満足させることはなにかといえば、おそらく 「独創的」 であることだろう。たしかに、「独創的」 であることは 「独創的」 でないことよりも評価される。だが、いうまでもなく、「独創的」 な研究などというものは、そう簡単に生まれるものではない。

 極端な例を出せば、1+1の答は誰が計算しても2である(2進法の場合は除く)。少々難しい方程式だって、それを理解できる人が正しい解法を用いて、間違いを犯さずに計算すればみな答は同じになる。たしかに、ややこしい問題とかであれば、その過程で多少の独創性が発揮される場面もないわけではあるまいが、答は一緒なのだから、その意味では「独創性」 が発揮される場面などはない。

 だから、一般的に言うなら、「独創性」 が必要とされ、また 「独創性」 が発揮されるのは、「未知の領域」 ということになる。だが、「未知の領域」、すなわちいまだ解決されざる問題を見つけるには、その分野において、現時点でどこまでが既知であり、問題がどこまで解決されているかをまず知らなければならない。

 「独創性」 を発揮すべき 「未知の領域」 とは、いわば雲の上に突き出ている富士山の頂上のようなものだ。だが、そこまでたどりつくには、えっちらおっちらと麓から自分の足で登っていかなければならない。ヘリコプターでいきなり頂上に降り立ったところで、それは富士を征服したことにはならない。だから、それはそう簡単なことではない。

 「独学者」 の多くが、ときにはトンデモ学説ですらあるような、世間の 「常識」 から離れた説に引き付けられがちなのは、おそらくそのためだろう。それは、本当の 「独創性」 を発揮するための前提として必要な、自分が 「知らない」 ということを知るための努力を不要にしてくれるだけでなく、自分が世間の常識を超越しており、したがって世間の人々より上にいるかのごとき勘違いによって、自尊心の満足にも役立つという非常に便利なツールでもある。

 たとえば、「常識を疑え」 という人たちは、コペルニクスはプトレマイオスの天動説を疑った、ガリレオはアリストテレスの運動論を疑った、ラボアジェはフロジストン説をひっくり返した、ウェゲナーは大地は動かないという常識に挑戦した、などという例を持ち出す。たしかに、それまでの常識をひっくり返したこの種の 「大発見」 は、科学の歴史にはことかかない。科学の進歩とはそういうことだ。

 しかし、彼らにそれが可能だったのは、それまでの 「常識」 では説明できぬ未知の問題にぶつかったからであり、あるいは 「常識」 であり、解決済みであるとされていたことに、じつは未解決の問題が潜んでいるのに気づいたからだろう。どちらにしても、それにはそれまでの 「常識」 について、ふかく理解することがまずは前提になる。そこで必要なのは、「常識」 なるものを無批判に受け入れることでもなければ、頭ごなしに否認し、ただ投げ捨てることでもない。

 さて、興味深いのは、このように 「世の常識」 や 「学界の常識」 とかに挑戦している人らの多くが、じつは彼らなりの固有の 「神」 を持っているという事実である。それはたとえば、政治・社会関係であれば副島隆彦や宮台真司であったりするのだが、同じような 「神」 は、医療や看護関係にも、物理学や宇宙論といった分野にも、また史学や思想・哲学といった分野にもいるだろう。最近では、こういった神様もじつに多様である。

 むろん、それらはピンからキリまであり、十把一絡げに扱うわけにはいかない。「神様」 扱いされてるからには、それなりの力量や資格、実績を備えている人もむろんいるだろうし、馬鹿な弟子がいるからといって、それがすべて師匠の責任というわけでもない。どんなに偉いお師匠さんにも、師の教えを理解できずに誤解したり、ただの無意味な呪文にしてしまったりする不肖の弟子というのはいるものだ。それは、かの親鸞さんについてすら言える。

 ただ、このことからは、そのような人の多くが、じつはフロムの言う 「権威主義的性格」 を備えているのではという印象を強く受ける。一般に 「権威主義的性格」 は、権威への服従を好むマゾヒスティックな性格と、権威を振りかざすことを好むサディスティックな性格の統合というように理解されている。これがただの小物であれば、自己の服属する権威のもとで、その権威を振りかざしたがる、いわゆる 「虎の威を借るキツネ」 ということになる。しかし、その一方で、フロムは次のようなことも指摘している。


 権威主義的性格には、多くの観察者を誤らせるようなもう一つの特徴がある。権威に挑戦し、「上から」 のどのような権威にも反感をもつ傾向である。時にはこの挑戦がすみずみまでいきわたり、服従的傾向は背景に退くこともある。このタイプの人間はつねにどのような権威にも ―― じっさいにはかれの利益を助長し、抑圧の要素をもたない権威にも反逆する。ときには権威に対する態度が分裂する。すなわちある権威に ―― とくにその無力に失望した権威には抵抗するが、やがてより大きな力と約束によって、マゾヒズム的な憧憬をみたしてくれるように思われる、他の権威には服従する。......

 かれらは内的な強さと統一性によって、自由と独立を妨げる力と戦う人間であるかのように見える。しかし権威主義的性格の権威に対する戦いは、本質的に一種のいどみに過ぎない。それは権威と戦うことによって、かれ自身を肯定し、かれ自身の無力感を克服しようとしている。そして他面では意識的であれ、無意識的であれ、服従へのあこがれが残っているのである。権威主義的性格は 「革命的」 ではない。私は彼を 「反逆者」 とよびたい。

『自由からの逃走』  


 このフロムの著書はナチズムの分析を主題にしたものだが、この指摘は、たとえば反権力や反権威、超俗性などをかかげた組織や集団の中に、しばしば、彼らが挑戦しているはずの権威とそっくりの 「対抗的権威」 が形成されるのはなぜかも説明してくれる。






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Last updated  2009.10.26 12:53:04
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