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カテゴリ:思想・理論

 自動車事故で死んだカミュに、『正義の人々』 という戯曲がある。このもとネタは、革命前のロシアで、社会革命党の秘密組織の指導者として、要人暗殺などのテロを行っていた、サヴィンコフという名のロシア人革命家が書いた、『テロリスト群像』 という回想録の中にある。

 サヴィンコフは、ロープシンという名で 『蒼ざめた馬』 などの小説も書いているが、革命後はボルシェビキ政権に対する武力闘争に加わり、最後は逮捕されて裁判にかけられた。そこで、いったんは死刑判決を受けたものの、「十年の禁固刑」 という特赦による減刑を受けたのち、なぜか刑務所で投身自殺をとげたとされている。

 この話については以前書いたが、要約すれば、爆弾投擲による暗殺実行の任務を与えられた、カリャーエフという青年が、目標とする人物が乗る馬車に爆弾を投げようとしたものの、その中に幼い子供らが同乗しているのを見て、投げるのを止めたという話。

 その多くが高い教育を受け、それなりの地位なども約束されていたでもあろう、ロシアの青年たちを、革命運動へと駆り立てたのは、むろん自由への憧れもあっただろう。だが、そこには、おそらくは貧しく抑圧されていた民衆に対する負い目という、「良心」 のうずきもあったに違いない。それは、たとえば有島武郎についても言えることだ。

 「良心」なるものを定義するとすれば、おそらくは善と悪を判別する心の中の装置といったことになるだろう。むろん、善とはなにか、悪とはなにか、などという話になると、またややこしくなる。ただ、とりあえず、完全な善や完全な悪など存在しないし、善も悪も、それ自体として存在しているわけではないということは言える。

 ようするに、世の中に存在しているのは、実体としての善や悪ではなく、せいぜいが 「善きこと」 「悪しきこと」 の相対的な区別であり、しかもそれは多くの場合、ややこしく入り組んだりもしている。ただ、その善と悪を区別する良心の基盤にあるのは、おそらくは、人間が持っている他者への 「共感」 能力というものだろう。

 たとえば、『国富論』 の著者として有名なアダム・スミスは、最初の著書であり、彼自身、もっとも重要な主著と考えていたという 『道徳感情論』 の冒頭で、こう言っている。

 人間がどんなに利己的なものと想定されるにしても、明らかに彼の本性の中には、いくつかの原理があり、そのおかげで、人間は他の人々の運不運に関心を持ち、彼らの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも得られないのに、自分にとって必要なものとする。
 この種類に属するものは、哀れみや同情であって、それはわれわれが他の人々の悲惨を見たり、生き生きと強く心に描き出されたりしたときに、それに対して感じる情動である。われわれがしばしば、他の人々の悲しみから、悲しみを引き出すということは、例をあげて証明する必要もないほど、明らかである。


 もっとも、人間の心の中には、そのような原理と対立し、それを打ち消す原理もある。それは、スミスも認めている。「悪」 は、たしかにしばしば魅惑的であるし、人間は 「善」 や 「正義」 などという観念によって、生きているわけではない。しかし、そのことは今はおいておく。

 われわれは、たしかに 「良心」 というような言葉を使うのは、あまりに気恥ずかしい時代に生きている。「良心」 という言葉は、たしかにあまりに濫用されすぎてもきた。いわく、信徒としての 「良心」、国民としての 「良心」、あるいは階級的 「良心」、革命的 「良心」 だのというように。

 そこでは、「良心」 という言葉が、宗教や政治的イデオロギーによって、大文字化されている。しかし、そのような 「良心」 は、むしろ個人を拘束する共同的な規範にすぎない。そのような大文字の 「良心」 は、個人が持っている素朴な良心の預け先として、ときにはその本来の良心を解除させもする。大義の名による血なまぐさいテロルは、しばしばそうやって正当化される。

 「良心」 というものは、おそらく心の中の知的な部分よりも、感情的な部分に属する。「良心」 への刺激が、しばしば怒りや悲しみをもたらすのはそのためだろう。それは感情的な部分であるがゆえに、たしかに統御が難しい。そのうえ、人間の情念は複雑であり、たがいに影響しあいもする。神ならぬ人間の 「良心」 は、そもそも完全でもなければ万能でもない。

 だから、目の前の怪我人を助けるというような単純な行為ならともかく、政治的行為のような複雑な行為では、「良心」 という単純な装置だけに頼るわけにはいかない。「地獄への道は善意で敷き詰められている」 という、有名な格言はそのことを表している。しかし、それはそのような行為において、「良心」 が無用だということではない。ただ、「良心」 は万能ではないということにすぎない。

 いうまでもなく、「良心」 は個人のものであり、人は他人の 「良心」 を代行できない。それは、精神が個人の精神としてしか存在しない以上、自明のことだ。とはいえ、それは、個々人の 「良心」 の間に共通性がまったく存在しないということは意味しない。「良心」 が善・悪を判別する心の中の装置だとして、それがたがいにまったく異なるのだとしたら、社会はそれこそ一瞬にして崩壊するだろう。

 そもそも、人間が人間になるのは、他者との関係を通じてだ。孤立した人間は、人間の人間としての様々な能力、たとえば言語すらも身につけられない。つまるところ、人間の精神は個別にしか存在しないものの、最初から 「間主観性」 を帯びており、その意味でも一定の共通性を有している。それは、なにも 「良心」 のみに限られたことではない。

 なるほど、「良心」 とか 「善」、「正義」 といった言葉は、たしかに手垢がつきやすい言葉である。そのような言葉を、政治の場で多用する者がいたなら、とりあえず疑っておいた方がよい。なぜなら、そのような場合、それらの言葉が指し示しているのは、実は規範化された大文字の 「良心」 や 「正義」 であり、その存在が暗黙のうちに前提とされているからだ。そのうえ、そのような言葉には、理性をマヒさせる魔力もたしかにある。

 しかしながら、世の中、手垢の付きえない言葉などというものは存在しない。どんなに立派な言葉だって、手垢はつきうる。「権威を疑え!」 というような言葉ですら、ときにはただの無知な夜郎自大の正当化に利用されもする。しかし、だからといって、次から次へと、ただただ新しい言葉や言い回しを作り出せばよいというものでもあるまい。

 「良心」 というような素朴で単純な言葉が、ときに手垢を帯びながらも、いまなお使い続けられているのには、それなりの根拠があるだろう。であるならば、その手垢の付いた言葉から、びっしりとこびりついた手垢をこそぎ落とすという作業も、ときには必要と言えるだろう。

 社会の中の抑圧や不正に対して、ときにその直接の当事者でもない者らまでが立ち上がるのは、それが彼らの 「良心」 を刺激するからだ。そのような問題について考えるということは、とりあえずそのために必要な 「良心」 という場を呼び起こすことでもある。ただし、そこから先へ進むには、それだけでは足りない。

 しかし、そこで呼び出された 「良心」 によって指し示された 「正義」 なるものが暴走を始めたなら、その暴走に歯止めをかけるのも、やはり同じその素朴な 「良心」 の役割と言えるだろう。カミュが言いたかったのは、おそらくはそういうことのように思える。


参照先: 意図や目的より手続きを重視するということ 

 

追記: 世界には 「完全なる善」 や 「完全なる悪」、あるいは 「善」 そのものや 「悪」 そのものは存在しないということは、言い換えるなら、世の中の物事は、「善」 と 「悪」 という言葉で考える限りにおいて、すべて多かれ少なかれ 「善なる性質」 と 「悪なる性質」 の両方を帯びているということを意味する。それは、「善」 と 「悪」 を厳しく対立させる正統的なキリスト教の倫理とは異なる、ユングの善悪観とも一致する。






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Last updated  2010.05.05 21:30:21
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