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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.06.10
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小早川墓地から北東へ500メートルほどいった山麓に、「ホウジョウジヤシキ」と呼ばれる一画があります。
字「宝丈寺」のうち、旧地番では1193~1196付近になります。
ここには、小早川家の氏寺と伝える法常寺がありました。

写真は、その法浄寺跡の前をはしる国道付近から、青田方面をみた風景です。
画面の右手の山が青田山。山の左側の山麓あたり、宅地が集まっているところが、小早川館の推定地であるT氏のお宅がある場所です(小さすぎてよくわからないかな)。
また、画面の左手の山の上には、小早川家の信仰を集めた僧都八幡宮が鎮座しています。
その山のむこうがわ(南側)に、写真ではわかりませんが、木村城のある山があります。
寺跡から城の山頂までは、直線にして、およそ500メートルになります。

嘉吉3年(1448)8月、小早川弘景は、子供たちに対し、「法浄寺をしっかりと信仰しなさい。無沙汰にしてはいけません」と教え諭していましたが、法浄寺は、小早川家にとって、もっとも大切な寺でした。

また、小早川墓地の性格を考えるうえでも、この寺の存在は無視できません。
このため、少し法浄寺についても、紹介しておきましょう。

旧境内地の一帯は、戦前・戦後のたびかさなる国道工事によって、大きく削られていますが(残念!)、昭和12年の道路工事では、川の石などを利用した参道のような石敷きの跡や、多数の五輪塔がみつかったといいます。
また、昭和36年の工事でも、建物の礎石らしい自然石がみつかっています。

また昭和12年、土地の所有者の明木庵善一氏が家を建てようとしたところ、多数の焼けた籾が出土し、炭や灰の層のほか、表面の焼けた石も出土したといいます。
この点からすると、法浄寺は、火事で焼け落ちてしまったようです。
その時期はわかりませんが、元亀2年(1571)には、三原に移転し、寺は、いまは三原市西野町にあります。

この法浄寺に関しては、菅脩二郎さんがまとめた「法常寺について」(竹原春秋5号・1971年)という調査記録があります。
菅さんが村の古老から聞き取りしたものですが、いまとなっては、たいへん貴重な記録です。
私たちの復元作業も、村の歴史をたんねんに調べられた菅さんの功績のうえに築かれています。

どこの村にも、こうした村の歴史にお詳しいかたが、必ずいらっしゃいます。
しかし残念なことに、多くのかたが、それを文字に残さないまま、亡くなられています。
そのうえ、核家族化の浸透によって、おじいちゃんやおばあちゃんから孫へ、村の歴史が語り継がれることも、なくなってきました。
これは、たいへん大きな問題なのです。

そのことで、長い間、語り継がれてきた村の歴史が、ぷつんと切れてしまうからです。
簡単なメモでも、かまいません。
それが事実かどうかは別にして、昔から村のなかで語られてきたことについて、ぜひ古老の方々は、それを書きとめておいてください。
それは、村の大切な財産になります。





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最終更新日  2005.06.10 16:53:25
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