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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.06.10
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法浄寺跡の西側には、隣接して「センコアンヤシキ」と呼ばれる一画がありました。
この「センコアン」や、寺跡の所有者である明木庵(みょうきあん)さんの苗字は、法浄寺の末寺に由来するものなのでしょう。

寺跡から100メートルほど上手に行ったところに住む、Oさんのお宅の前の田のあたりにも、二、三の寺があったと伝えられています。
また、国道をはさんだ浅い谷には、「トウデンナ」と呼ばれる畑もあります。

法浄寺は、このあたり一帯に末寺をしたがえて、栄えていたのでしょう。
写真は、僧都八幡宮の山側から、法浄寺方面を撮影したものです。
画面の中央、横一列に木々が生い茂っているのが見えますが、その向こう側にこの木々に並行して国道2号線が走っています。
寺は、画面左側一帯、その国道と山側の一画にありました。

なお、寺跡近くのOさんのお宅の屋号から判断すると、小早川一族の大垣内氏は、このあたりに屋敷を構えていたのでしょう。
ここは、沼田からの道と、旧山陽道からの道を扼するところに位置し、大垣内氏は、このルートの押さを期待されていたようです。





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最終更新日  2005.06.10 19:18:51
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