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中世武士団をあるく 安芸国小早川領の復元

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2005.06.16
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カテゴリ:三原市 石塔
米山寺の小早川家墓所内にある宝篋印塔のなかでも、最大の規模を誇る宝篋印塔です。

高さは、2.23メートルもあります。
塔身の正面左端(むかって右側)に「大工念心」、右端に「元応元年己未十一月日」「一結衆敬白」という文字が陰刻され、「元応元年」(1319年)に立てられたことがわかります。
鎌倉幕府が滅亡する14年前のことです。

基礎・塔身・笠・相輪のすべてを完備し、大工の名前までわかるという点でも、たいへん貴重な宝篋印塔になります。

基礎の高さは44.1センチ(上部の反花を除いた側面の高さは33.5センチ)、幅は69.8センチあり、銘の有無にかかわらず、現存する基礎としては、小早川領内では、最大の規模を誇ります。

基礎の側面の正面・右・左の3面には、それぞれ側面の周囲に輪郭をまわし、格狭間(こうざま)をいれています。
格狭間とは、壇の足の部分につけた装飾的な部材で、写真のように曲線の形をしています。
鏡餅を置く台に曲線的な穴があいていますが、あの部分が格狭間です。
この格狭間は、時代によって形が微妙に異なり、宝篋印塔の年代を判断する決め手のひとつになります。

笠の軒幅は、63.7センチあり、軒の下を2段、上段を6段につくります。
このころの宝篋印塔の笠は、堂々とした風格がありますね。

塔身に刻まれた「結衆」の文字からすると、小早川朝平(ともひら)の時代に、先祖供養と一族の結束・繁栄を願って建てられたものでしょう。

また「大工念心」は、愛媛県大三島の大山祇神社にある文保3年(1319年/4月28日に元応元年に改元されます)の宝篋印塔の銘にある「法橋念心」と同一人物と思われます。
法橋の僧位が示すように、仏教教義にも通じた石工だったのでしょう。

彼の名前は、ほかにも、三原市沼田東町の万性寺の塔身(残欠)や、同市鷺浦町の正安2年(1300年)の割石地蔵磨崖仏にもあり、三原周辺で活躍した石工でした。
奈良の西大寺に属し、三原にも遺品を残した心阿の関係者ではないかとも推察されていますが(『三原市の石造物』)、詳しいことはわかっていません。

米山寺への行きかたです。

米山寺へは、バスの便がありません。
三原駅からだとタクシーで25分ほどかかります。
本郷駅からは10分ほどで到着しますが、タクシーの台数が少ないので注意してください。
境内には、広い駐車場のほか、見学者用の立派なトイレも完成しました。
宝庫には、小早川隆景の肖像画や古文書などが保管されていますが、こちらは公開していません。

小早川家墓所の見学は自由ですが、元応元年塔の銘を拓本でとることは、文化財保護の観点から厳禁です。

なお、小早川墓所のすぐ下の道をほんの少し山に向かい、左手の日光坊にむかう細い道を少し進むと、少し小高い場所に歴代住持の墓所があります。
ここにも宝篋印塔の残欠があります。
このほか、本堂の横のH家の墓地や、米山寺手前の山中などにも、宝篋印塔や残欠があります。

このうち米山寺手前の山中にある宝篋印塔は、慶長3年(1598年)の銘をもつ貴重な宝篋印塔です。





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最終更新日  2005.06.17 01:19:13
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