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カテゴリ:三原市 石塔
この写真は、米山寺にある宝篋印塔の基礎の部分を撮影したものです。
基本的な形は同じですが、よく見ると、基礎の上部が違うことがわかります。 上の写真の基礎は、階段状に造りますが、下の写真の基礎は、連弁を刻み出しています。 このうち、階段状のものは、二段に造ることから、「二段式」、下の写真のような基礎は、「反花(かえりばな)式」の基礎とよぶことにしましょう。 宝篋印塔の基礎の上部は、小早川領に限らず、そのほとんどが、階段状か、反花式になります。 階段状のものは、一段、二段、三段のものがありますが、二段式がもっとも多いのが特徴です。 これに対し、反花式は、奈良県をはじめ、関西から中国地方に多くみられます。 石造の宝篋印塔は、鎌倉時代の中頃から製作がはじまりますが、原初のかたちは、二段式であったと考えられています。 その後、少し遅れて、大和国(奈良県)で反花式に改良され、関西圏に広がりました。 しかし、同じ関西圏でも、近江国(滋賀県)は、二段式が圧倒的に多く、反花式が少ないことが指摘されています。 このように、宝篋印塔には、地域性がみられるのです。 米山寺の小早川家墓所や墓所周辺には、この両方の形式がみられます。 その数は、二段式が14基(墓所内に13基)、反花式が16基(墓所内に7基)となり、半々の割合になります。 しかし、二段式の基礎は、墓所周辺にある1基を除いて、いずれも39.8センチ以上の幅があります(最大は43.2センチ)。 その大きさからみて、小早川家の当主クラスの塔とみてよいでしょう。 このうち2基は、その型式や縦横の比率からみて、14世紀の塔とみなされます。 写真の基礎は、その1基であり、米山寺では、元応元年塔に続いて造立された14世紀中頃か、それ以前の塔と考えています(墓所内の前列、むかって左から三番目の塔になります。基礎幅41.2センチ)。 これに対し、反花式は、特別な意味をもつ「元応元年塔」(写真下)のように、幅69.8センチという大きな基礎もありますが、この塔を除けば、幅39.8センチ以上の基礎は、6基ほどしかありません(最大は42.6センチ)。 しかも、元応元年塔を除けば、みな15世紀以降の基礎となります。 この点から考えると、沼田小早川家では、二段式が主流だったようです。 しかも、39.8センチ以上の塔に二段式が多いことからすると、沼田小早川家では、当主クラスは二段式、子弟クラスは反花式の基礎を造るというように、使い分けをしていたようです。 同じ小早川家でも、分家の竹原小早川家の領内になると、反花式の基礎が主流となりますが、これも、本家の当主が使用する二段式をさけていたのかもしれません。 この問題は、まだわからないことが多く、なお慎重な検討が必要です。 今後の調査のなかで、なぞ解きをしていきたいと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.06.19 00:40:05
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