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カテゴリ:竹原・小早川家領の原風景
ふたたび、竹原にある小早川家墓地に関するお話です。
これまでも紹介したように、竹原の小早川家の歴代当主の墓所は、氏寺として信仰され、大切に守られてきた法浄寺にありました。 それでは、いまもたくさんの石塔が残る「小早川墓地」は、どのような土地だったのでしょうか。 そこでまず確認しておきたいことは、「小早川墓地」という名称は、戦後に生まれた新しい名称である、という点です。 いつ、誰が名づけたのか、はっきりしませんが、岡本虎一さんの著書『竹原市の仏像 第一輯』に「小早川墓所」と見られるのが早い例になります。 その後、中世武士団の研究者として著名な石井進さんが、名著『中世武士団』(小学館)のなかで、「城の西北の方角にあたることからみても、竹原家の墓地にまちがいあるまい」と指摘されたことで、広く世の中に浸透することになりました。 墓地の入り口に観光協会が立てた説明板も、石井さんの説をそのまま引用しています。 たしかに民俗学の研究では、古くから村や町の西北(乾の方角)は、魂風(たまかぜ)の吹く方向、祖先の霊が行き来する特別な方角であると認識されています。 このため、村や町の西北、そして村や町のはずれ(境界)にあたる空間に、共同墓地がつくらている地域が、いまでもたくさんあります。 したがっても、木村城と墓地の位置関係から、ここを小早川家の墓地とみたてた石井さんの説も、それなりに説得力はあります。 しかしその一方で、この一画は、村のなかでは、長く「後藤実基の墓」として伝えられてきました。 江戸時代のある時期に記された『安楽寺旧記』(小早川旧記)によると、後藤兵衛とは、竹原が小早川家の領地となる以前、鎌倉時代のはじめに、この土地を支配していた領主だといいます。 関東の宇都宮出身の後藤兵衛は、はじめ吉名村の毛木浦(竹原市吉名)にいましたが、「竹原の四家侍」とよばれた「山田弾正・原甲斐・山上筑後・柏野某」によって、東野に招かれ、領主となったというのです。 もちろん史実ではなく、あくまでも伝承ですが、文政8年(1825)の『芸藩通志』に収録される東野村の絵図をみると、「後藤兵衛墓」という一基の石塔が記されています(画面やや右側の本城山の麓に「後藤兵衛墓」と記されています)。 この石塔こそ、いまも墓地の中心に立つ、宝篋印塔(H1)に相当しましょう(6月7日の記事参照)。 後藤伝説は、すでに19世紀には、村の歴史として語られていたようです。 そしていまもなお、後藤伝承は、村のなかで語り継がれています。 しかし、後藤伝承は、江戸時代にはいって、竹原の村の旧家がみずからの家の由緒を語るためにつくりあげたフィクションとみてよいでしょう。 そもそも鎌倉初期には、まだ石造の宝篋印塔はつくられていません。 このため「後藤兵衛墓」とされる宝篋印塔も、その大きさからして、竹原小早川家の当主にかかわる供養塔とみて、ほぼ間違いありません。 しかし、石井進さんの指摘するように、ここを「竹原家の墓地にまちがいあるまい」と断定するわけにもいきません。 そのなぞ解きは、後藤伝承や、木村城との位置関係からではなく、やはり墓地に残る石塔そのものから解明していくことが必要なのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.06.19 22:21:18
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