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カテゴリ:竹原・小早川家領の原風景
広島藩は、文政1年(1818)、一定の様式に基づいて、領内の町や村から、その地域の地誌・古文書・旧記・村絵図を提出させ、膨大な地誌をつくりました。
文政8年(1825)に完成したこの地誌は、『芸藩通志』(げいはんつうし)とよばれ、いま広島県の歴史を調べるうえで、不可欠な基本史料となっています。 なかでも村ごとに記された絵図には、いまでは失われてしまった地名や寺跡などが記され、歴史の風景を復元するうえでも、たいへん重宝します。 竹原小早川家の本拠となる東野村の絵図をみると、「小早川墓地」に相当する「後藤兵衛墓」と記されるすぐ右上に、「小早川興景夫婦墓」として2基の石塔が描かれています。 これは、6月8日の記事で紹介した「ダイカン」「コウカン」にあたります。 このことから、19世紀には、いまと同じように、上下2段からなる墓域が形成されていたことがわかります。 また、墓地の前には、「正の堂 薬師」(ショウノドウ ヤクシ)・「長福寺跡」(チョウフクジアト)といった記載もみえます。 「小早川墓地」は、いまも少し小高い場所にあるのですが、そこを降りて、村側にむかう道を数10メートルほど進むと、かつて観音堂が立っていたという一画につきあたります。 観音堂は、昭和30年代初頭までは存在し、神楽も奉納されていました。 おそらくこの観音堂が、絵図の「正の堂」にあたるものなのでしょう。 東野村は、平安時代から、京都の賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)の荘園だった竹原荘(たけはらのしょう)に属し、賀茂神社も勧請されました。 絵図の左側には、この賀茂神社が八幡社とともに、「加茂・八幡」と記されています。 賀茂神社の氏子は、東野のほか、西野・仁賀(にか)に広がり、この範囲が竹原荘だったのでしょう。 その後、鎌倉初期までに、竹原荘に隣接するように、同じく賀茂御祖神社の荘園として都宇荘(つうのしょう)が成立します。 このことから、竹原荘は本庄(ホンジョウ)、都宇荘は新庄(シンジョウ)ともよばれました。 東野の東を流れる賀茂川の対岸(絵図では画面を斜めに流れる賀茂川の下側)は、いまも新庄とよばれ、都宇荘は、このあたりを中心とした範囲にひろがっていたのでしょう。 なお、竹原小早川家の城となる木村城は、新庄にあります。 これに対し、竹原荘に属した東野村は、村が藩に提出した「国郡志下調書出帖」(文政2・1819年)によると、「往古は本庄村」とよばれたそうです。 絵図に描かれる「本城山」も、もとは「本庄」の山という意味で、「ホンジョウヤマ」とよばれていたのでしょう。 それが江戸時代のある時期に、ジョウという音から、城があったと誤解され、「本城」の字が当てられたようです。 実際、この山は、どこまで登っても、城跡をうかがわせる遺構は見当たらず、城があった山とみるわけにはいきません。 絵図に記される「正の堂」も、本来は、「本庄村のお堂」という意味から、「ショウの堂」とよばれていたのかもしれません。 その名前からすると、村の中心地として機能していたのでしょう。 お堂の前の土地も、かつては「庄の堂の前」と呼んでいたものが、縮まって「正の前」とよぶようになったと考えられます。 正の堂と隣接して記される長福寺との関係はわかりませんが、この寺は、正の堂との位置関係からみて、観音堂跡のすぐ横に住まわれるSさんのお宅があるあたりにあったようです。 寺は、正徳2年(1712年)の時点(おそらく元禄年間以前)では、もう廃れていたため、詳しいことはまったくわかりませんが、小早川墓地から、正の堂、そして長福寺へと、ひとつの道で結ばれていることからすると、この墓地は、長福寺とかかわる墓地だったのではないでしょうか。 おそらく正の堂も、長福寺の観音堂であったものが、寺が廃れたあともそのまま残り、村人に大切に守られてきたのでしょう。 その長福寺跡とみられるSさんのお宅のすぐ南隣が、Tさんのお宅、つまりあの小早川家の館跡推定地となります。 このような位置関係から判断すると、このあたり一帯は、領主の空間であったとみてよいでしょう。 「国郡志下調書出帖」によると、19世紀前半のころ、「小早川墓地」の一帯は、「殿様建テ」と呼ばれてたそうです。 この「建テ」を、館(たて)の当て字とみて、領主の館を意味すると考えれば、このあたり一帯が領主の空間であった可能性は、さらに高まります。 ただし、現在の墓地の空間は、領主の館を建てるほどの空間はありません。 このため、もともとは墓地を含むこのあたり一帯をさす呼び方だったのかもしれません。 それが、この墓地にある宝篋印塔は、殿様が建てた墓だという伝承と結びついて、「殿様建て」という漢字に置き換えられ、その後、墓地の一帯だけをさす地名として残ったのではないでしょうか。 さらにいえば、長福寺も、本来は、領主の館に付随したお堂が前身であったとも考えられます。 そして、この「殿様」とは、小早川をおいてほかにはいないでしょう。 その意味では、このあたり一帯を小早川家ゆかりの土地であったとみなして、まず間違いないでしょう。 絵図には、正の堂のすぐ北側(絵図右側)には、「金九郎」(カナクロウ)とよばれる場所が記されています。 ここには円正輔貞という鍛冶が住んで金糞を捨てていたという伝承が残ります(文政の書出帳)。 東野の周辺には、鉄生産に関する遺跡や地名が多く残りますが、この金九郎には、領主に直属する鋳物師の集団が住んでいたのかもしれません。 館跡推定地の前は、江戸時代は「馬場垣内」(ババガウチ)とよばれていました。 いまこの地名は、まったく忘れ去られてしまい、正確な範囲は特定出来ませんが、館の前に馬場が広がっていたことが地名として残ったものなのでしょう。 その北側には、「古町」(フルマチ)の地名もみえます(明治時代は「町田」とよばれました)。 すでに水田地帯になっていますが、ここはかつて木村城の城下町が広がっていた場所なのでしょう。 地名は、こうした歴史の原風景を復元する上で、大切な手かがりをあたえてくれる文化財でもあるのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.07.09 00:47:25
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