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カテゴリ:宝篋印塔を旅する
まずは、左に掲げた宝篋印塔の基礎の写真を見てください。
すべて、三原市の米山寺にある小早川家墓所の宝篋印塔になります。 反花式と二段式といった違いはありますが、側面に限ってみたとき、上の2枚の写真に写る基礎と、3枚目の写真に写る基礎、そして4枚目の写真に写る基礎の形が、それぞれ微妙に異なることに気がつかれましたか。 比較的わかりやすいのは、2枚目と4枚目でしょう。 4枚目の基礎は、2枚目の基礎よりも、少し高さがあり、輪郭の幅も異なります。 このように、基礎の形は、時代によって微妙に異なる特徴をもちます。 その違いをひとつひとつ明確にしていけば、宝篋印塔の時代ごとの特徴を記したモノサシができあがります。 そしてこの作業は、宝篋印塔を歴史資料として活用していくためには、不可欠な作業なのです。 実は、ほとんどの宝篋印塔には、造られた年号が刻まれていません。 いつのものなのか、わからないのです。 もっとも、中世の宝篋印塔なのか、近世の宝篋印塔なのか、大まかな時代ならば、モノサシがなくても、ある程度の予測はつきます。 また、石塔の入門書などには、宝篋印塔や五輪塔の基礎や笠の図を掲げて、個々の時代の特徴を記すものもあります。 しかし、これとても大まかな特徴を示したものにすぎません。 このため、これまで石塔の年代を特定する作業は、もっぱら様式論に基づいて、調査をする人間の経験とカンに頼っておこなわれてきました。 しかし、これでは客観性に欠け、歴史の資料として扱うには、問題があります。 これまで宝篋印塔が美術史の分野で注目されながら、歴史の資料として活用されてこなかった大きな原因は、この年代判定のむずかしさにありました。 この問題を克服するためにも、客観的なデータに基づくモノサシ作りが必要なのです。 しかも、宝篋印塔は、地域ごとに個性がありますから、こうしたモノサシは、地域ごとに作成する必要があります。 それでは、どのようにして、基準となるモノサシを作ればよいのでしょうか。 私の方法は、次の通りです。 まず、調査地域内で年号のある宝篋印塔を確認し、その各部の寸法をできるだけ細かく測定します。 たとえば、基礎の場合、計測の対象は、全体の高さの縦横、基礎の側面の縦横、側面にある輪郭の上下左右の幅、側面に彫られる花頭形の円弧の位置などが主なポイントです。 このとき、基準となる基礎は、基礎そのものに年号が彫られているものを対象とします。 宝篋印塔のなかには、塔身に年号が彫られているものもありますが、現在の組み合わせが本来の組み合わせとは限りません。 寄せ集めとなれば、塔身の年代は、基礎とは無関係となります。 したがって、誤差を少なくするために、あくまでも基礎に年号が刻まれているものを基準の基礎として定めます。 ただし、基礎に限ると、個体数も少なくなります。 このため、他の特徴などもふまえた上で、とくに問題がなければ、塔身に年号が刻まれているものも、基準の塔として編年に加えてよいでしょう。 いま私が進めている、広島県(備後国と安芸国西部)には、基礎に年号を刻む宝篋印塔が5基あります。 すべて14世紀のものとなり、このままでは時代差が読み取れません。 このため、塔身に年号を刻みながらも、問題が少ないと判断した7基(14世紀5基、16世紀・1598年1基、17世紀・1619年1基)加えて、12基で編年を作成しています。 各部の計測を終えたら、今度は、その数値をもとに、各部の比率を割り出します。 これで、ある年代の基準値が決まります。 たとえば、14世紀の基礎は、基礎の縦横の比率が0.72以下、基礎の側面比が0.52以下、基礎の上部の比率が0.28以下となり、比較的、横長の形をしています。 また、上の輪郭の幅と、下の輪郭の幅の比率が1.2以下、上の輪郭と横(左右)の輪郭の幅の比率が1.8以下、基礎の側面の横幅と横の輪郭の幅の比率が0.13以下となります。 さきほどの写真の一番上の基礎は、元応1年(1319年)の銘をもつ重要文化財の宝篋印塔の基礎ですが、この時代の特徴をよく示しています。 2枚目の写真の基礎は、銘はありませんが、この時代の特徴をよく示し、米山寺では、元応1年塔につづく、1350年代以前の宝篋印塔とみてよいでしょう。 小早川家墓所内では、前列、むかって右から8番目の宝篋印塔になります。 また、同じ14世紀の宝篋印塔であっても、年代によって、輪郭の上下の幅が微妙に異なります。 14世紀前半の比率は、ほぼ同じなのですが(つまりほぼ同じ幅ですが)、1350年から60年代にかけて、下の輪郭の幅が上の幅より狭くなります。 しかし、それ以後は、逆に広くなっていきます。 これは、14世紀の基礎をより細かく分類するときに重要なポイントになります。 また、横の輪郭の幅は、時代をくだると広くなりますが(1・2枚目の写真と4枚目の写真を比較するとその差は歴然です)、14世紀の基礎は、上の輪郭幅と比較しても、その差は5ミリを超えません。 つぎに、15世紀になると、14世紀の比率の特徴を残しながらも、基礎の上部の高さが増し、基礎の縦横比が0.75前後まで高くなります。 この傾向は、二段式の基礎よりも、反花式の基礎にとくに顕著にあらわれます。 また、二段式の場合、14世紀の基礎は、いずれも上部の段形の端の線が、左右の輪郭の内側の線とほぼ一致しますが、15世紀の基礎は、輪郭の幅が広がるぶん、段形の側線は外側となって、輪郭線とは一致しなくなります。 これは、2枚目と3枚目の写真を比較すると、よくわかります。 なお、15世紀の基準となる基礎は確認されていないため、この時代の基礎は、14世紀と16世紀の基準塔と、これまでの調査対象としてきた基礎の比率などを参考にして、割り出しています。 ちなみに、3枚目の基礎は、小早川家墓所内では、2枚目の基礎のむかって右隣りにある宝篋印塔の基礎となります。 つづく16世紀にはいると、基礎の高さはさらに増し、16世紀中頃の基礎の縦横比率は0.78前後、16世紀末には0.8前後となります。 また、側面の縦横比も、0.55前後のものが登場してきます。 輪郭の幅も、下や左右の輪郭の幅が広がり、上の輪郭と下の輪郭の比率は、1.6前後以上となり、下の幅が太くなります。 上の輪郭と横の輪郭の幅の比率も、2.2前後以上となり、横の輪郭の幅が広くなっています。 4枚目の基礎は、無銘の基礎ですが、こうした特徴をもちあわせていますから、16世紀、それも16世紀末の基礎とみてよいでしょう。 この基礎は、小早川家墓所内の前列、むかって一番右側にある宝篋印塔のもので、小早川隆景の塔といわれていますが、年代的にも、隆景の供養塔とみてよさそうです。 宝篋印塔の年代は、こうした各部の比率や、花頭形の比率・特徴など、いくつものポイントを押さえたうえで、最終的に年代を特定していきます。 このブログで紹介している無銘の基礎は、こうした手順をふんで年代を推定したものなのです。 ただし、ここに紹介した基礎の数値は、あくまでも広島県の西部における基礎の編年です。 同じ広島県でも、東部は異なる特徴をもち、同じ瀬戸内海でも、美作や播磨では同時期のものでも、異なる比率がみられます。 このように、宝篋印塔は、地域ごとに個性があるため、そのモノサシも、地域ごとに作成する必要があるのです。 さらに細かな編年や記事の引用などは、「安芸国小早川領の宝篋印塔の編年試案―米山寺の宝篋印塔を素材としてー」(『荘園と村を歩く2』校倉書房)を参照してください。 なお、論文中p221に掲載した表2のうち、銘部の部分に誤りがありました。以下のように訂正します。 三原市沼田東町 米山寺 元応1年の塔 (誤)身身→(正)塔身 三原市小泉町 吉井家墓 建武1年の塔 (誤)塔塔→(正)塔身 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.07.22 12:38:13
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