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カテゴリ:三原市 石塔
小早川領内に残る五輪塔のなかでも、大和町(だいわちょう)の棲真寺(せいしんじ)にある五輪塔は、鎌倉時代までさかのぼる五輪塔として、町の文化財に指定されています。
地輪が土中に埋まっているため、全体の大きさは測定できませんでしたが、近くに立つ教育委員会の案内板によると、126センチあるそうです。 4尺塔として造られた、小早川領内でも、かなり大きな五輪塔です。 火輪(軒幅41センチ)は、やや高さがあり、軒も厚みがあって隅が少しそりあがる形をしています。 水輪は、球形に近いながらも、最大径の位置は、中心よりわずかながら高い位置にあります。 風輪は、半円球ではなく、深鉢状の形をしており(7月28日の記事にある箱根の五輪塔の風輪と同型です)、空輪の最大径は、中心よりやや下の位置にあります。 五輪塔の確かな編年がつくられていないため、はっきりとは言えませんが、こうした特長からみると、鎌倉時代の後期の五輪塔ではないでしょうか。 梵字を配していますが、空風輪・火輪・水輪の組み合わせが異なりますから、一度ばらけたものを、ある時期に現状のように組み合わたようです。 五輪塔がある棲真寺は、寺伝によれば、小早川家の祖先にあたる土肥遠平(とひとおひら)が亡き妻、天窓妙仏の菩提を弔うために承久元年(1219)に建立したといいます。 この五輪塔も、土肥遠平が亡き妻の供養のため建立したという伝承があるそうですが(『大和町史』)、そこまでさかのぼる五輪塔ではありませんから、この伝承は誤りといってよいでしょう。 また、応海山棲真寺も、その存在が確認できるのは、13世紀中頃からとなり、建長4年(1252)の沼田本荘方正検注目録に「応海寺仏性燈油田三丁」と、その名がみえるのが最初です。 その後、弘安2年(1279)に白雲恵暁が再興したと伝えられていますが、手かがりとなる古文書がほとんど伝来せず、寺の歴史はよくわかりません。 しかし、『毛利家文書』のなかに、興味深い史料も残っています。 永禄4年(1561)3月、毛利元就は、長男の隆元とともに、三男で雄高山城(新高山城)主の小早川隆景のもとを訪れたあと、棲真寺を経由して吉田へ帰国しています。 いまも山深いなかにある棲真寺ですが、中世は、隆景の城のある本郷から吉田へ抜けるルートに位置し、小早川家の信仰も集めていたようです。 境内周辺には、寄せ集めの宝篋印塔が3基残り、いすれも基礎幅が37センチ前後(37.5、36.8、36.7センチ)あります。 小早川の一族にかかわる宝篋印塔なのかもしれません。 棲真寺からは、隆景の居城も遠くに見ることができます。 画面中央の遠くに見える二つの山のうち、左側の台形の形をした山が高山城、右側が雄高山城です。 毛利元就も、ここから隆景とすごした日々を思いだし、吉田に帰国したのでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005.08.11 14:03:47
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