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テーマ:石塔を旅する(10)
カテゴリ:竹原市の石塔
竹原市仁賀町の西谷に鎮座する八坂神社の境内には、かつて萬福寺というお寺がありました。 萬福寺跡に残る薬師堂 寺の由来など、詳しいことはわかりませんが、楽音寺(がくおんじ)に奉納された大般若経の奥書に「折手同竹原之庄、西谷萬福寺頼勢、如是各折本 于時永禄三年十月二日」とあり、小早川隆景の時代には存在したことが確認できます(楽音寺文書)。 楽音寺は、三原市本郷町にある竹原小早川氏ゆかりの寺院で、14世紀後半から15世紀中頃の院主職(寺務一切をつかさどる僧侶)には、頼真、ついで頼春という名の僧侶がついていました。 永禄3年(1560)に萬福寺の住職だった頼勢も、院主と同じ「頼」の字をつけることから、楽音寺ゆかりの僧侶だったのでしょう。 だとすると、萬福寺は、楽音寺と同じ真言系の寺院だったようです。 満福寺跡からみた仁賀の風景 寛保3年(1743)の『賀茂郡仁賀差出帳』には、すでに「古寺跡、番僧も御座無く候、本尊薬師如来秘仏ニて御座候」とあり、江戸時代には無住となっています。 江戸初期の慶長年中に焼失し、その後、無住となったという伝承もありますが、おそらく福島正則の入部を契機に廃寺となったのでしょう。 本堂は、写真に写る薬師堂の画面左側の空き地に植えられている桜の木のあたりにあったと伝えられています。 ただし、『賀茂郡仁賀差出帳』には、「堂のそうじ等、近所の百姓仕り候、村惣仏ニて御座候」ともあり、その後も村人の信仰を集めていました。 トップの写真に写る仁王像も、文政10年(1827)3月吉日に建てられたものです。 現在は、薬師堂だけが残っていますが、仏さまは、村内の別の場所に移してお守りしています。 境内には、権現社と八坂神社が鎮座していますが、これは『賀茂郡仁賀差出帳』に記される「権現」と「牛王」の「かやぶき」のお社にあたるものでしょう。 境内の近くには、いま2基の五輪塔が祀られています。 地元では、小早川氏にさきだって、鎌倉初期からこの地を支配していた後藤兵衛実元の末裔、四代篠原伯耆守元次、五代篠原安芸守の墓と伝えられています(安楽寺旧記)。 五輪塔の年代は、鎌倉時代までさかのぼりませんから、この伝承は、のちの創作にすぎません。 しかし、初代にあたる後藤兵衛とその子、後藤備後三郎実金の墓は、東野の安楽寺にあったという伝承とあわせると、前回の記事でも指摘したように、仁賀と東野の深いむすびつきをうかがわせる話として興味をひきます。 これは、むかって右側の五輪塔です。 水輪を二つ重ね、さらに火輪の上にも水輪を積み上げています。 水輪は、左側の五輪塔のものを含めて4個残ることから、少なくともここには、4基の五輪塔があったことになります。 左側の五輪塔も、すべてが揃うといっても、おそらく異なる五輪の各部をもって組み上げたものでしょう。 火輪の形状からみて、いずれも戦国期か、それ以降のものとなりますが、左側の火輪(軒幅26.7センチ)が、火輪の下端をほぼ水平とし、軒の端を反りあげるのに対し、右の火輪(軒幅23.8センチ)は、軒の反りもゆるく、左の火輪よりも古いかたちとなります。 戦国期の火輪だとしても、16世紀前半か、あるいは15世紀までさかのぼるかもしれません。 火輪(右側) 火輪(左側) なお、この周辺には、宝篋印塔は、残欠をふくめて確認できません。 このことからすると、この寺は、小早川一族ではなく、その家臣クラスのものによって維持されていたと考えられます。 測定データ(単位はセンチ) 空風輪1 全体の高さ25.8 空輪 最大径19.0 下端径16.1 風輪 最大径20.4 ほぞ径5.0 火輪2 むかって左 長さ(軒)26.66 高さ17.8 上端10.717 軒厚4.982 ほぞ穴径5.982 むかって右 長さ(軒上端)23.737 (軒中央)23.794 (軒下端)23.812 高さ13.164 上端10.383 軒厚3.955 水輪 むかって左 最大径31.1 むかって右 下から 最大径28.5 30.1 26.6 地輪 長さ26.838 高さ20.8 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.03.24 17:55:23
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