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小春日和の朝

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2013.06.26
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カテゴリ:日記

 入院中は元気になるにつれてとても退屈なものとなってきました。そこで日記を付けることにしました。

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 手術前日から数日間は記憶を辿って書きました。1日に何件も書いた日もあり、2冊の小さなノートには70件近くとなりました。その中からの抜粋です
病名については詳細な記述を省略しています)

 4月30日・・・・「紹介状を持って」

 4月8日からある総合病院で体調不良(微熱、頻脈、体重減少、息切れ)の原因を探るべくお世話になっていたが依然として原因は分からず。4月30日は病院へ来るように言われて予約していた日でした。
 血液検査の結果、CRPの値の改善はやや見られたものの白血球数は12,000と異常値で横ばいのまま。造影剤による検査もしたがそれでも原因は判明せず。
 12時前にエコー室に入るように言われ検査してもらうと、その結果、循環器内科の医師から「今から紹介状を書くのでそれを持って大至急S病院の救急外来へ行って下さい。向こうの病院へは連絡してありますから」との指示を受ける。
 「自家用車では行かず、タクシーで行って下さい。自分で運転されて途中で何か起きたら病院として責任がありますから
」と念を推され、たいへんなことが判ったのだと思った。
 そのとおり、私の今回の体調不良の重大な兆候が分かった時だった。それは後日わかったことだが、この日に判明していなければ私の命はどのようになっていただろう。
 医師と看護士の方が病院の玄関まで送ってくれた。私はずっと内科へ掛かっていた。
どこへ掛かるといいのか判らなかったから内科に掛かっていたのである。
 S病院に到着。救急外来で受付を済ませて長椅子に座って呼ばれるのを待った。これから多分入院することになるだろうと思いブログを閉鎖し、コメントも返せなくなるだろうという思いでコメントの受付も閉鎖することにした。
 30分ほどして呼ばれいろいろな検査を受けた。「ご家族は来ていらっしゃらないのですか、ご家族をすぐに呼んで下さい」と言われ電話をした。暫くしてカミさんと大型連休中の長男が駆けつけてくれた。
 「明日、手術をします」と言われ、カミさんと長男には別室にて詳しい話があった模様。そのことは手術後、数日してその内容をカミさんから聞いた。

5月1日・・・・「手術」

「手術は午後からになると思います」と集中治療室で告げられた。1時頃、透明なマスクを当てられて意識を失った。

5月2日・・・・「生きていた、そして不思議な物

 意識が戻ったのは翌日だった。目覚めたのは医師か看護士かそれとも家族から声をかけられたかはっきりと覚えていない。
 とにかく生きていた。開胸手術を受けたところも全く痛くない。手術中は麻酔のおかげで全く記憶がない。
 カミさんと長男と二男が帰っていたあとはただただ天井を見つめ時間が経つのを待つだけだった。口には酸素マスク。
 天井を見つめていると何やら物体らしきものが動いて回った。形は葡萄の房、色は藤の花。これが私の視野の中を上下左右に飛んで動いた。是が幻覚というものではないかと思った。この葡萄の房・藤の花の色は翌日には消えた。

5月3日・・・・「縛られていた」

 口元には酸素マスクと何かが装着されているらしかったがはっきりと覚えていない。
覚えているのは口元が苦しかったことと喉が渇いてどうしようもなかったこと。
口元に付けられていたものを無意識のうちに取り外そうとしらたしく、両手首はベッドに縛りつけられていた。

5月4日・・・・「ひとかけらの氷」

 術後何日経ったのだろう、まだ意識が朦朧としていてはっきりとわからなかった。口にいろいろなものが突っ込まれているのためか喉は乾き、唇はカサカサ。
「水を飲みたい」と看護士へ懇願したが医師からの了解が出ていないという。
 術後、多分4日目だったと思うのだが医師からの許可が出たのだろう、ひとかけらの氷を口に入れてもらった。久しぶりに口で感じた水分、ジュワーッと口の中で溶けていく。60有余年、生きてきた中で一番嬉しい液体ではなかっただろうか。是が本当に生き返った気分、目尻から涙がこぼれているのが分かった。
 「ひとかけらの氷」が持つ力、普段は全く感じないものだ。

5月4日・・・・「カミさんの心配」

  カミさんと家族、私の兄弟たちは手術の模様を術中モニター室という部屋でリアルタイムで見ていたという。
「オヤジの心臓の色は悪かった」(二男)、カミさんは「この人、死ぬのじゃないかな。生きていても寝たきりになるのではないか。寝たきりになれば私も具合が悪いので看病できるだろうか」と心配したと教えてくれた。こちらはそんなことは全く知らず。そうだったのかとその内容を黙って聞くだけだった。
 ベッドに縛られていた手首の紐は外され、すべて筆談となった。

5月5日・・・・「流動食」

 流動食とやらが出てきた。お粥、深緑色、赤い色のものと出てきたが見た目からして食欲が湧かなかった。口にしても全く美味しさを感じなかった。お粥をスプーンで2口ほど食べて止める。流動食が何回出てきたか記憶にないが、このときにさらに体重が減少したと思う。
  看護士に形があるものを食べたいと無理を言った。

5月8日・・・「歯ぎしり」

 ICU集中治療室から一般病棟にやっと移った。何曜日なのか全くわからない。前日に長男と二男に「大型連休を無茶苦茶にして済まなかった」と詫びたことを思い出す。
 一般病棟での初めての夜、同室の患者さんに歯ぎしりの激しい人がいることがわかった。
 歯ぎしりの主は70歳半ばくらいに見える方だった。歯ぎしりをする人は若い人が多いのではないかという先入観を持っていたが、このような年代の方も歯ぎしりをする人がいるんだなと思い、歯ぎしりをさせるようなストレスはどんなことなのだろう考えるとさらに眠れなくなった。 

5月10日・・・・「声が出ない」

 緊急な入院だったためカジュアルな服装に入っていた財布、携帯などカミさんが全て持って行ったままでメールにも電話にも出ることができなかった。術後10日も経とうというのに声が出ないので喋ろうとするときつい。携帯があったとしても喋れなかった。
カミさんに携帯を持ってきてもらうと「飲んでいるから出てきませんか」という誘いや「ブログが閉鎖されているけど何かあったの」という留守電が入っていた。

5月14日・・・・「出会い」

 病室は4人部屋、退院していく人、入院してくる人、個室へ移っていく人と入れ替わりが激しい。そんな中ではるばる宮崎県からの患者Fさんと出会う。私より3歳年上、にこやかに話しかけてくる。Fさんはまだ30歳代だった弟さんを病気で早く亡くしてしまったこと、自らの病気のことなどについて詳しく話してくれた。携帯の番号とメールアドレスを交換、そして名刺も頂いた。お互い軽いとはいえない病気で出会えた二人だがこれも何かの縁である。Fさんの病状からするとアルコール類は控えたほうが良いと思ったが「私は退院したら飲みますよ」と少し気合の入った言葉が返ってきた。

5月15日・・・・「料理番組」

 入院中、病室内では本を読む、新聞を読む、テレビを見るくらいでとても退屈だ。
料理をすることが好きなことから自然と料理番組を見てしまう。でも入院中の料理番組は目に毒である。私の場合、病院食はカロリー制限があって仕方ないと諦めてもいたが、それでも頭の中はあれも食べたい是も食べたいとその思いで一杯。
 野菜中心の制限された食事のおかげでスリムな身体になったが病院食にはもう飽いてしまった。
 退院して初めて口にするメニューは何にするか、退院はずっと先なのにもう考えている。

 

(今回はここで終わります。5月8日以前は当日書けなくて後日回想して書いたものです。続きはこの下にUPします)






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最終更新日  2017.07.14 12:00:05
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