カテゴリ:カテゴリ未分類
副題は「近現代日本の精神」
稲垣久和さんが講談社現代新書で書かれたものです。 この中では「自律してものを考える市民層が作る社会」の重要性が繰り返し語られています。国家と個人という対立軸だけでなく、その間に「市民社会」があるべきである。その市民社会が力量をもつためには、個人の人格的成熟が前提になります。 未熟なままの個人では主権者として心許ない。 個人が人格的成熟を果たすために必要なのが、教育であり、宗教であり、読書する習慣である。 人格的に成熟した個人は再生した自我をもつが、そうでないとあてどない自分捜しに迷走してしまいます。 迷走する個人は宗教に渇いています。生きる意味がわからないから、内部に空洞があります。 筆者はその渇きと空洞に付け込んだのがオウム真理教などのカルトであり、付け込もうとしている地固めが靖国参拝だと主張しています。 さて、特定の信仰を持たない私はどうしましょうか。教育が必要というなら宗教教育を公的には受けないだろう、私の子供達は? 西田幾多郎に親和性を感じているということは禅宗に近い場所にいます。私が畳に爪を立ててのたうちまわり、葛藤して、読み散らかして辿りついたのはそこです。大学の教養部での授業より父の書棚が私を救いました。 思想や宗教に関して無色でいることは不可能ですし、乗っとられる危険があります。選ぶのは子供達ですが、折りに触れて少しづつ話してみます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|
|