言い方の違いはあれど
マタイによる福音書7章3節「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」(新共同訳)イエス様があの有名な「祈りの仕方を教えた」箇所の後、弟子たちに続けて諭された箇所の中から一部を抜き取りました。さて、ここは英語の聖書二つではどのように書かれているでしょう?ESV(English Standard Verson)Why do you see the speck that in your brother's eye, but do not notice the log that is in your own eye?(あなたは兄弟の目の中にちりが見えるのに、自分自身の目の中にある丸太に気づかないのはなぜですか)NKJ(国際ギデオン協会)Why do you look at the speck that in your bother's eye, but do not consider the plank in your own eye?(あなたは兄弟の目の中のちりに目を向けているのに、自分自身の目の中にある厚板をじっと見ることをしないのはなぜですか)ESVの方がどっちかというと「ちりや丸太を《認識する》」という感じですが、NKJだとどちらかというと「ちりや厚板を《しっかり見る》」という感じです。see と looknotice と consider同じ聖書箇所なのですが、とり方が違うのですね~どっちにせよ、他人の中にある「小さいもの」ばかり気にせず、自分の中にある「大きいもの」にしっかりと意識を向けよ、とおっしゃっておられるわけで、「救い」ももちろん大事なのですが、それ以上に「生き方」をイエス様が「何とかして伝わってくれ~(そして行動を変えてくれ~)」と思いながら話されているように思うのです。イエス様の願いに応えるのは大変。それでもそれが、「幸せ」「地上の楽園」に導いてくれるのだと思うのです。