いきと野暮の恋愛作法
本屋をブラブラしていて、ふと目に留まったまま、買ってしまった、九鬼周造著・『「いき」の構造』。昔。高校生の頃。「え? あの本、まだ読んでないの?」と得意になるのだけが目的で、読んだ記憶があるのですが・・。あの頃は、さっぱり理解できなかったなぁ。それから、幾星霜。さすが、年の功、といいましょうか、今読み返してみると、「そうだよなぁ」とうなずくことしきり。ビンビンと分かる自分がいるわけですよ。年を積み重ねる、経験を積む、ということは、人間にとって、いかに大きなことか、ということを、いまさらながら、思い知ります。(若い方々、聞いてます?)著者は言うんですよね。「いき」とは、異性に対する「媚態」である、と。で、この媚態は、”異性の征服を、仮想的目的として、目的の実現と共に、消滅する運命をもったもの” だそうで。即ち、媚態は、目的達成しちゃったら、用はなくなる・・というんですよね。だからこそ、「媚態」の要は、”距離を出来る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達さないようにすること”・・なんだそうです。で、こういう「媚態」が、いきの基調である『色っぽさ』を規定するのだそうで。早い話が、デキちゃったら、おしまい、ということですね。触れなば、落ちなん・・というふりして、落ちないと。そうじゃなきゃ、いけないらしい。「いき」には、「意気」の要素もあって、”媚態でありながら、なお、異性に対して、一個の反抗を示す強みを持った意識” でもあるそうでして。分かりやすくいうと「ベンツ乗ってようが、エルメスのバッグ買ってくれようが、そんなことでは落ちないわよ」というところを、見せ付けるのが、「いき」というわけです。さらに「いき」は、「諦め」でもあるのだそうですよ。要するに執着しない。相手の気が変わっても、追いかけない。未練があっても、潔く切れる・・。「あだっぽい、かろらかな微笑の裏に、真摯な熱い涙の、ほのかな痕跡がある・・」こういうのが「いき」なんだそうで。う~ん、大人の世界よねぇ。まだ、ありました。『「いき」は、恋の束縛に超越した、自由なる浮気心でなければならぬ。』だそうでして。随分と浮気男に都合のいい解釈・・という気もしてきますが。「いき」に生きるのも面倒そう。でもね。私しゃ、野暮天だぁ~、と悲観は無用です。野暮でも、救いは十分ある。『野暮は、揉まれて、”いき”となる』んだそうですから。せいぜい、コツコツと、媚態を育みましょ、かね。