鳥肌が立つほど感動した??
9月場所の大相撲で、日馬富士が全勝優勝をして、その授賞式で、野田総理が「鳥肌が立つほど感動した」と言っていらしたのです。私は、「ナヌ 鳥肌が立つぅ」と思いまして。以前、雑誌「クロワッサン」でエッセイを連載していた時、年配の担当編集者から、叱られたことがあったのですね。鳥肌が立つ、というのは、嫌な気分の時に使う表現で、「感動」した時に使うのは間違っています・・と。以来、いろいろな人が使う度、「あれ」と引っかかってしまいます。今回も、「若手芸能人ならともかく、総理大臣までが、間違った表現しちゃあ、いかんだろ」と気になったもので、念のため、と調べてみました。2011年に「鳥肌」を扱った読売新聞の記事があり、それによると、50年以上前に書かれた文学作品に登場する「鳥肌」は、例えば太宰治「ヴィヨンの妻」には「その言葉の響きには、私の全身鳥肌立ったほどの凄い憎悪がこもっていました」という一節があり、横光利一、織田作之助らの小説でも「鳥肌が立つ」は、もっぱら寒さ(冷たさ)や恐怖・嫌悪を表していて、感動の表現として用いられた例はないのだそうです。でも、今は「鳥肌が立つ」は、寒い時や怖い時よりも感動した時に使われる場合が圧倒的に多く、ま、時代と共に、言葉の使われ方は変わっていくのかもしれない・・と、よくある結論にまとめてます。ある説では『「鳥肌が立つ」は立毛筋が収縮して体毛が立つ現象なわけで、何に対してであれ、例えば「この料理はおいしすぎて鳥肌が立ちました」も、本当に立毛筋が収縮したのなら正しい使い方である。』とありました。なるほど。で、広辞苑ですが、1998年発行の第5版では、「寒さや恐怖などによって立毛筋が反射的に収縮することによる。」とだけあったようなのですが、2009年発行の第6版では、「近年、感動した場合にも用いる。『名演奏に鳥肌が立った』」といつの間にか、容認派に転じているのだそうですよ。要するに、「感動して実際に鳥肌が立つのだから、使ってはいけない道理はない」・・「もう、時代はそうなってしまったのだよ」ということらしいんですねぇ。ふむ。まあでも、旧世代組の意地として、私ゃ、それでも、使うもんか と思いましたけど・・。