人の命は重いのか、軽いのか?
電車に乗っていたら、目の前の席に座った若い男性が、座ったとたん、ポケットからゲーム機を出して、すさまじい勢いで操作し始めたのだ。まるで憑りつかれたように、狂ったよいうに・・。多分これは、戦闘ものゲームなんでしょうが、鬼気迫るその様子に、私は目が離せなくなって、ずっと見守ってしまったのだけれど・・・、降りるべき駅についたら、ピタッと止めて、平然とした様子で降りて行った・・。彼には、電車に乗っている人たちを眺めやるとか、思考にふけるとか、今日の段取りなんぞを振り返るとか、そんな時間はないのだろうかと私は、なんともザワザワとした違和感をぬぐえなかったものだ。19歳の名古屋大学の女子大生が、「人を殺してみたかった」といとも安易に、77歳の女性を殺してしまった。少し前も、高校の同級生を「人を殺したかった」という理由で、殺してしまった事件があった。この手の事件が妙に増えている・・と感じるのは私だけだろうか「人を殺してみたい」とずっと思って、実行しちゃう青年たちと、他愛ない戦闘ゲームに、没頭する若者と、一緒にしちゃあ、いけないのだろうけれど、なんだか、おかしいよ、最近の日本・・と思う部分は一緒だ。聞くところによると「何故、人を殺してはいけないのですか」と質問する子供たちが、いるのだとういう。じゃあ、大人はどうやって答えるのかそういえば、私達は、どう「人を殺してはいけない」と学んできたのだっけとも思う。人の命はなによりも大事だといい、だからこそ、人質になっている後藤さんの安否を日々、大々的に報道しながら、その一方で湯川さんの死は、いともあっさりと流してしまうマスコミの欺瞞とか、日々世界で行われている虐殺に対する、世間の無関心とかを、子供たちは直感的に、でも強かに見ているから・・と私は、ちょっと思ったりするんですね。もちろん、わが身の反省を込めて・・ですが。