日馬富士引退の、なんというか後味の悪さ
横綱・日馬富士が引退を決めたようですね。まあ、今回の騒動は、そこしか落としどころがないですから、 妥当な流れなんでありましょうが、ザラザラしたものがどうしても残ります。 それが、何なのか、と考えてみるに、 「暴力は絶対にいけない」というその窓口から問答無用で見ようとする、 今の日本の社会性に対する違和感、でありましょうか。 こういうと「暴力を肯定するのか」とすぐ凄まれてしまうんですが、 肯定はしないし、人類として最も非力な範疇に入る私は、暴力、大嫌いですが、 「暴力はゼッタイいけない」というその一点だけで物事を見ようとすると、 本質が見えなくなることがあるのではないか・・と気になります。 モンゴル民族の、しかも格闘界の中にいる彼らの価値観、文化観がある中で、 日本に来て、相撲界という特殊な世界の中で懸命に生きている力士の先輩後輩が、 酒席でもめ事を起こして、暴力沙汰になる・・。 それは、大の大人が幼い子を殴る、そういう暴力とは同列に語れないものではないか。 おそらく、多くの人がその辺のことを気持ちのどこかで感じているのに、 でも「とにかく暴力はいけない」という水戸黄門様の印籠の前には、 太刀打ちできなくて、テレビなんかのコメントも、みな、一様に モヤモヤとしたものに、なっているのではないですかね。 日馬富士の引退は、止むを得ないものだと、私も思いますが、 もう少し、言い分に耳を傾けてあげる余地があってもよかったのではないか そういうことができない今の社会って・・ありませんかね。 酒気帯び運転が絶対いけないものになって、今や、ほんの微量のアルコールでも、 運転すると、天下の大罪人のように扱われて、社会的生命すら奪われてしまう。 前提が「お酒を飲んだら運転してはいけない」というその一言なわけですが、 多くの人が、どこかで違和感を感じているのではないですかね。 こういうことを言うと、また、叱られてしまいますが。 なんというか世の中に、ハンドルの遊び、みたいなものがどんどんなくなって、 自由にものを言えなくなっている・・。 テレビでも、ネットでも、みんな、言いたい放題のように見えて、 実は建前やきれいごとに終始しなくては排除されてしまう世の中になっていませんかね。 不倫騒動然り、核兵器反対然り・・で。 もちろん、暴力はいけませんよ。 酒酔い運転もいけませんです、肯定しているわけではありません。 日馬富士は「疲れ果てた。もう精神的にダメです」と関係者に話しているそうです。 なんかね、やっぱり私はザラザラとした後味の悪さを感じますね。 一部の人は「正義が勝った」と喝采するのかもしれませんが。