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……春休みを自主的に一週間早めたのは、結果的には意味のない行為だったかもしれない。 「四年生最後の日によよ(仮名)がいないなんて!」 という親友Sちゃんからの手紙を握りしめて帰ってきた長女よよが、ことの異様さに薄々気づいてしまった。 というよりも、帰省計画を強引に進めた当の私ですらが、11日地震当日もお世話になっていたSちゃんちに帰省の挨拶に行ったとき、自分の行動の持つ意味に改めて気づいたような感じだった。 「帰るところがあるならそうした方がいいよ~」 そんなふうに言ってくれたSちゃんのママはいまいるところが地元だし、ご主人のご実家は木更津だ。 ……それに気づいたとき、大事なものを見捨てて逃げていくような感覚に打ちひしがれた。 それでも。 原発はこのままではすぐにも深刻な爆発事故(格納容器の)を起こすかも、とまで思っていた私としては、このときはまだ、子どもたちの分は片道切符しか取っていなかった。……そのことはもちろん、子どもたちには言えなかったし、夫婦間で話し合いもしなかった。自分でも、なるべく考えないようにしていた。 (仕事を休む状況にない私は、故郷の友人の誰にも会わずどこへも出かけず東京にとんぼ返りのつもりでいたし、実際に四国で一晩過ごしていた間は、留守番の夫ひとりが東京で爆発に巻き込まれないよう、祈り続けていた……。) 私は何をやっているんだろう??? 3月20日(日)、空港で甥っ子わか(仮名)を預かり、子ども3人を引率して松山空港へと飛んだ。 次女と幼いわかの2人は、「おばあちゃんちへの楽しい旅行」への期待を全身に漲らせていて、私にはそのことが救いだった。 ……両親は、私たちが着くなり車を走らせて温泉に連れて行ってくれた。夜はみんなですき焼き鍋を囲み、ひとりでビールをどんどん空ける。 本当の被災をしたわけでもなんでもないのに、余震のないこの町が本当に長閑に思えた。 3月21日。 帰る間際になって、長女よよ(仮名)が発熱。 ついさっきまで、持参したAKB48のCDをかけて踊り狂っていたくせに……とあきれるやら泣けるやら。 長女には昔からよくあることだが、私が仕事を休めない時期には絶対に熱を出さないので、ここで緊張の糸が切れたのだろう。両親には本当に申し訳ないことだったが、体調不良の子を置いて東京に戻る。 夜、熊本で地震との報が入り、目の前が暗くなったが、幸い長くは続かなかった。 「どこにいても同じですよ」 阪神淡路大震災を経験した同僚がいった言葉を思い出す。 それならば危険を承知で「一緒にいる」ことを選択すべきだったのだろうか。 答えは出ない。 東松島出身の友人夫婦。 10日以上連絡がとれなかった奥様の御両親の無事がわかり、週末にも救援物資(このときは主に燃料だった)を持って現地入りするという。 「服も靴もぜんぶ流されてしまった。暖かいアウターやジャージなどがあれば寄付してください」 そんなメールをもらって、まずは家にあるものをかき集める。 子ども用のコートやスキーブーツ。 マラソン大会の参加賞でもらった未開封のTシャツ類は、大人の下着代わりに。 カイロなどの防寒具。 そして、これだけはダイレクトに被災地に届くはずの、少しばかりのお見舞い金。 彼らのリビングでは、床に直置きされたテレビからは例の空撮映像が流れ続けていて、私は既に報道を見る気力を失っていたが、彼らはまだ、食い入るように見つめ続けているのだ。 海岸線の状態、知っている建物らしきもの遠景から、位置関係を推測して。 報道が伝える言葉以上の情報を、彼らの知りたい場所の安否情報を求めて。 ……幼い頃から馴染んでいたその風景が、まるで一変してしまったのだ。 地形が変わるほどの地震って、どんなものだったんだろう。 改めて恐怖が甦る。 奥様の実家は、国道を一本隔てて流されずに残ったが、家の中には泥水が浸入してひどい状況らしい。 「いっそ御両親こちらに連れて来ちゃいなよ」 何気なくいった私のひとことに、表情を一瞬固くする。 「でも……どうしてもダメだったら来るところがあるから、まだあっちでがんばれるのかもしれない」 生まれ育った場所への愛着、ということを思った。 (まだ続く。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 30, 2011 12:26:15 PM
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