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病院に入院している父の調子が悪いので、今治に行ったついでに、四国八十八箇所の一部を回ってみました。
今治市には、54 延命寺 55 南光坊 56 泰山寺 57 栄福寺 58 仙遊寺 59 国分寺 と6つあるので、割と密度が高い。 55南光坊は、父が入院している病院のすぐ近くなので、 実際に回ったといえるのは、56泰山寺 57栄福寺の二つだけで、しかも、今治駅の近くでレンタサイクルを借りて、です。 しまなみ海道のサイクリングが観光業の目玉なので、自転車道が、非常によく整備されていて、多少、ふらふらしても、車に当てられる心配が少ないようになっています。 山の上にある58仙遊寺に自転車で行くのは、多分、大変なことなので、最初から、やめておきました。 休日だったので、お遍路さんは多く、大抵、菅笠をかぶったり、白衣を着ていて、普通の服装をしている人は少ない。 車で回る人が多いようだが、歩いている方も、結構いる。 55南光坊は、ウィキペディアによると、「594年(推古天皇御代二年)勅により、伊予の国一宮で大三島に鎮座する大山祇神社の『供僧寺』のうちの一坊として南光坊が造立された。」とあるので、本体は、どうやら、大山祇神社の方で、大山祇神社の行う仏事関係の施設であったらしい。 さらに、ウィキペディアによると、「四国八十八箇所の55番札所は大三島の大山祇神社であったが、鎌倉時代以後は当社付属の別当寺・光明寺が札所とされた。明治初年に現在の南光坊として分かれ札所も移ったが、現在でも境内は隣接している。」とある。 ということで、本来の四国八十八箇所55番札所は、大三島にある大山祇神社なのだが、鎌倉時代になって、おそらく、船に乗って大三島まで行くのは非常に大変なので、大山祇神社の関連施設のあった現在の場所でもいいよ、ということになったらしい。 もっとも、四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページによると、 「縁起によると、大宝3年、伊予水軍の祖といわれた国主・越智玉澄公が、文武天皇(在位697?707)の勅をうけて大山積明神を大三島に勧請し、大山祇神社を建てた際に、法楽所として24坊の別当寺を建立したことが創始といわれる。これらの別当寺は翌々年、海を渡っての参拝が不便なことから現在の今治市に移されているが、和銅元年(708)に行基菩薩が24坊のうち8坊を「日本総鎮守三島の御前」と称して奉祭した。さらに、弘法大師がこの別当寺で法楽をあげて修法され、霊場に定められた。」 とあるから、現在の場所が、最初から、55番札所かもしれません。 その後、明治初年の神仏分離令にしたがって、仏事を行う部門が切り離され、南光坊が、現在のように、四国八十八箇所霊場第55番札所になって、隣に別宮大山祇神社が存在する、ということになったようです。 57栄福寺も、明治政府の神仏分離令の影響を受けているようで、現在、栄福寺の前に鳥居があって、上に上がると見晴らしの良い石清水八幡宮が、どうやら、本来の57番札所だったようですが、分離して栄福寺が札所となったようです。 南光坊にも栄福寺にもお遍路さんが多かったのですが、すぐ近くにあるにもかかわらず、別宮大山祇神社にも石清水八幡宮にも、誰もおまいりしていませんでした。 明治政府の神仏分離令の影響だと思うのですが、お寺に行ったその足で、ついでに近くの神社にも行くのは、何となく効果が薄れるような感じがしないでもありませんが、しかし、まあ、現在は分かれているとはいえ、もともと一体的なものだったのですから、日本の伝統からいえば、両方行った方がよいような気がします。少なくとも、罰は当たらんでしょう。 栄福寺も56泰山寺も参拝者が多く、立派な建物が建っていて、経済的にも潤っているようです。 それに対して、別宮大山祇神社や石清水八幡宮に人が集まるのは初詣の時くらいかな、という気がします。 56泰山寺と57栄福寺の途中に、延喜式神名帳にも載っているという「大須伎神社」という立派な神社があって、そこにも行ったのですが、大須木神社に関しては、ウィキペディアに記事がありません。 廃仏毀釈の祟りかどうか分かりませんが、どうも、神社側の旗色が悪いような感じです。 というようなことが関係あるのかどうか、数十年ほど前にできた「新四国曼荼羅霊場」のように、明治政府の神仏分離令に逆らうような動きもあるようです。 これは、近畿地方における「神仏霊場巡拝の道」と軌を一にしたものであるようですが、「新四国曼荼羅霊場」の方が早くからできています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014年03月27日 14時24分31秒
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