さらしあげ
第2章 前田直方の軍事論はじめに 前章で述べたとおり、前田直方の思想形成に有沢兵学が果たした役割は重要と思われる。一方で藩内は藩校成立などで儒学が盛況になっていた。このような中で直方の中で有沢兵学はどのように昇華されていったのであろうか。ここで、直方が軍事についてどのように考えていたのかを検討することで確認していきたい。というのも、有沢兵学は前章で述べたとおりある程度総体的な学問であるといっても、本質は軍事論であり、直方の思想に最も影響を与えるとするならば軍事の部分が大きいだろうと予測されるからである。 まず、最初に寛政11年(1799)に書かれた著述『時務説』を取り上げ、その後に文化6年(1809)『軍解』を取り上げる。両者とも直方の著述の中で軍事についてよくまとまっているのが取り上げる理由である。両者の間に10年ほど間があいているので、時期による変遷も考えたい。第一節 寛政11年段階における直方の軍事論直方は軍事について「御仕置と申は御備定より始り候」というように、支配というものは軍事からはじまるとし、軍事を大変重視している。そして現在の藩の状況についてこう述べている。治世久敷候得は肝要之武備之心得もうとく成行、驕吝謡逸之志のみにて、無容之所作多ク相成候も、法度政務之致処ニ而御座候半最後の大規模な戦時動員が大坂の陣から約140年、その間はたいした動乱もなかった。そのために家臣団が武備に対する心がけが薄くなる。そして、経済的にも無駄使いが多くなったと指摘している。家臣団の弛緩が顕著であると直方には思えたのである。 家臣団の不備の指摘はそれに留まらない。制度についても17世紀後半に定められて以来そのままだとする。そして、軍役のそれぞれについて、その当時の定めに従うだけであり、武士としての心構えがないと指摘するのである 。それは一方で心がけの問題ではなく経済的な問題でもあった。この頃、藩財政は悪化の一途であったし、藩は家臣に対して借知を行うなど、そのしわ寄せは家臣団にきた。「軍役之義は御定之通と被仰出候而も今日之困窮には難成候故千石已下之面々にて無之とも差つかへかちに」なっていたのである。軍役を果たそうとしても、生活に影響があるために果たせない軍装・軍役を維持できない下級家臣達が多数存在したのである。それ故に、彼らは武具、馬具などを常に取り揃えていないために、いざ有事の際には「道具屋質屋抔有合」せの品を求めるとういうのである。そのような品では自分の手に合うわけも無いとする。そのような武士は「士之不心得不届と御座候」と心がけが批判される存在ではあるのだが、「其心懸も俗習」と今の風俗になってしまい、多数、存在したのである。そうなると、藩としては彼らの存在を念頭においた軍備の制度機構を整えなくてはならないとするのである 。直方は現実問題として下級家臣団の軍役に対する心がけのなさを指摘し認識していたのである。また、下級家臣団だけでなく年寄といった上級家臣も同じだったようである。年寄たちに対しては藩からの軍装軍役といったものは定まってないとし、そのために先祖伝来の武具等を以って自分たちの軍装としていた。しかし、それらの手入れ等は怠っていていて、有事の際にはすぐに役には立たないし、年寄達もどこまで取り扱う事ができるのかわからないとしている家臣団全体が弛緩し有事の備えが無い事を指摘する。これは家臣団個々の心がけのなさの指摘でもある。一方で藩としてもそのような家臣団の状況をふまえた新しい制度の必要性を直方は指摘するのである。この当時、日本全体として新たな軍事的な問題が起こっていた。それは海防である。寛政4年にラクスマンが来日するなど、諸外国の目は日本にむき通商を求めるといいう動きが活発化していく。加賀藩は日本海にせりだした能登半島を抱えている以上、どうしても海防に対して意識をむけなくてはならなかったのである。直方は海防について近年公辺より被仰渡之、浦方御手当之義抔も、異国船之御手当ニ而可有之候ハ、中々小事ニ而は無之義ニ而、可有之候 と、重視するべきだとする。その上で、西国は従来からその手当てもできているとするが、加賀藩は定めが無いとする。「重々の御手当無之候而ハ相叶不申義ニ候得共年寄共ニは其心得も有之間敷候半」と、海防問題に対し、しっかりとした対策や準備を練らなくてはならないとしながらも、藩の上層部でもあり、戦陣の際に重要な位置を占める年寄達にはその心得があるのかどうかと疑問視しているのである。先述したことと合わせると直方から見れば年寄たちの弛緩は甚だしかったようである。 このような状況に対し、加賀藩の藩学とも呼べ、直方自身も修学した有沢兵学について直方は「有澤杯ニ而も水軍之義は以前より熟得ニも不仕体ニ候」というのである。有沢兵学は甲州流を基本としている。甲州流とは武田信玄の戦法の研究であり、そのほとんどが陸戦、野外戦、功城戦であり、海戦については研究がなかったのである。また、前田家としても海戦の経験はなく、海戦については未知数だったのである。しかし、直方は海防について具体的な提案をしていく。まず、海防は「軍船之手当」が無くてはいけないとする。そして西国の例をだし、それらの国は鉄砲の備えも完備され、火筒なども二十目、三十目といった大きさの物が多くあるとする。加賀藩でも火器は海防に対して有効であるとしながら、年寄共が使い方を会得していなくては、年寄達が指揮をとることはできないだろうとする。まず、火矢用の船を確保しなくてはならない。能州については能州郡奉行が、越中も同じように船について埒が明くようにしなくてはならないとする。なぜなら、領国内には小早関船抔の軍船は数艘しかないので、荷船を持って事にあたらなくてはならないのである。そうなると処々の奉行たちは船の借り上げについて心得てなくてはならないし、水主船頭といった舟を動かす人々も数百人は確保しなくてはならない。それらの準備や手段について、あらかじめ処々の奉行が船や人の数であったり、確保の方法であったりを把握しておかなければならないとするのである。 直方は具体的に海防対策について頭をひねっている。その重要な点は船の確保である。異国船が来訪してくる際に打ち払うためには船が必要と考え、そのための確保を考えている。その考え新造船を増量する等の新味にあふれた改革というものではなく、今、現状の体制の中で最も効果を発揮する方法どのようなものかという事を考えている。つまり理想を追い求めるというよりは現実を見据えた上での対策を練ろうとする。その点において直方の考え方は保守的であり、現実から飛躍していたものではない。有沢兵学についても水軍の事で研究が無いと言う点で否定している。それ以外にも兵学家について、武略智略と書物では言うが実際には稽古抔もしないことなので「一組一備軍師一人充罷在候而も是も治世之畠水練ニ而候へハただ学文之餘習」であるとする。軍陣の基本単位である、組、備に独りずつ軍師といったものがいても学問の予習でしかなく、意味が無い物だとするのである。重要なのはその軍略について年寄や諸頭等の指揮官たちが軍略について理解し体に慣れさせておく事だとするのである。この兵学に対する考え方からも伺えるのは現実問題に対してどのようにしたら最も効果的、実用的なのかを伺う直方の考え方である。高遠な理論であっても、実際の役にたたなければ否定する。つまり、直方にとって現実的に実用か否かがある種の判断基準なのである。実用性と現実性が直方の思想の特徴として挙げられる。理論的で理想的なものより、実際に役に立つ方を直方は指向するのである。 また、外冦だけではなく、一揆等の対処についても直方は述べている。一揆等の対処の際には馬廻一組、横目使番等を先手にするべきだとする。そして、これは近年起こった飛騨の例を先例とするとする。飛騨国は近世を通じてたびたび一揆が起こった。特に享保、明和、安永と近世中期は大規模な一揆が頻発した時代でもあった。飛騨国は加賀国、越中国と接しており、加賀藩としても他人事では無かったようである。安永二年に飛騨で検地反対の百姓一揆である大原騒動が起こる。同年11月16日、幕府より加賀藩の支藩である富山藩に出兵が命じられる。その当時の加賀藩主治脩は11月22日富山藩の助成を派遣することを決定、準備するよう命じる。そして、11月24日に馬廻頭の野村源兵衛組、先弓頭吉田忠左衛門、先筒頭小堀金五右衛門と有沢裁右衛門、使番横浜那百助、石黒宇兵衛、大小姓横目佐久間與左衛門と足軽50人に出兵を命じている。しかし、この際の出兵は結局、騒動が早く鎮圧されたために行われなかったようである。