四国の旅の後編である。この5月の終わりごろ、第十四番札の常楽寺の次に訪れたのは、第十五番札の国分寺だった。平城京遷都後30年、大和の国は諸国に法華経を写させ、七重の塔を造営させる。聖武天皇は各国に国分寺と国分尼寺の造営を詔勅させる。これは国状不安を鎮撫する為であったが、いよいよ日本と言う国は、聖徳太子以来の仏教によって立つ国へと向かうのである。全国各地にある国分寺と共に、官営の寺院である。
境内に七重の塔の芯礎が安置されていた。この芯礎は環溝型という珍しい形式だそうだ。この寺も後年建て直されたものらしく、この芯礎のもとの位置もはっきりとは確定されていないらしい。しかし、何故五重塔ではなく七重の塔なのか? 七五三の七、五七七の七、七夕の七、北斗七星の七、わが国ではかねてより、七と言う数字は神秘的な数字として崇められてきたようである。総本山とも言える、東大寺にもかつては七重の塔が建っていたと言う。ところが、現在、各地に建立されていたであろう木造の七重の塔は、どこにも残っていないそうである。
次に向かったのは、第十八番札の観音寺。これは住宅の立ち並ぶ中に平然として建っていた。そんな何気ないあり方が四国の風景なのであろう。近すぎて本殿を写すのはままならなかったが、代わりに仏足跡が安置されていたので写してみた。
これは模刻で、元はインドグフタ朝時代の最古の仏足だと言う。釈迦入滅後、現在のような仏像が造られる以前は、このような仏足を印し礼拝して来たとのことである。それにしても、この文様は亜細亜を感じさせる。それぞれの文様に象徴的な意味が込められているのだろう。
かくして、この旅は第十四番札から第十七番札を巡る旅だった。あいにく、第十七番札の井戸寺の画像は紛失してしまった。徳島県の中部あたりを巡ったものである。わたしの次の旅は、欠けている第2番札から第13番札を巡る北部の旅になる予定だ。また、西南へ足を延ばした折には試みてみたいと思っている。