地方自治体の子育て支援とは?
次の日曜日は、私の住む市の市長選挙がある。現市長は、四年前に「子育て支援策」と「しがらみのない行政」をめざし、多くの市民の共感を得て当選した人である。彼の「子育て支援策」は、主に「読み聞かせ」から始まる「読書コミュニティ形成」により子どもが健やかに育つという信念での政策を打ち出してきた。私は、そのことに異を唱えるものではないし、私自身もその方向からの子育て支援活動に関わっているので、この4年間は様々な分野から協力も得られやすかったし、評価もいただいてきた。これは、現市長のおかげだとは思っている。さらに、現市長は全国に先駆けて「プレイセンター」を開設し、(ただし、全額国の補助金なので、来年度以降は財政負担がグンと上がる)子育て環境においてはトップランナーであることを自認している。が、しかし、だ。子ども達が健やかに育つには「読み聞かせ」や「読書コミュニティ」だけで万全なはずがない。現在の市長の子育て支援は、主に中流以上の人たちへの支援策だ。様々な事情で子どもにゆったりと本を読み聞かせるゆとりもなかったり、家庭環境が劣悪だったり、一人親家庭だったり病気がちな子どもを持つ家庭への子育て支援は、保育行政や児童会、子育て支援センターなどの充実や、夜間・休日の小児医療体制の確保などなど、切実な課題が山積している。この4年間で、学校図書館が充実したことで学校が変わり不登校も激減したと彼は胸を張る。不登校問題に関心を持ち、それに関わる活動をしている私は、これで堪忍袋の緒が切れかかった。激減とはどのくらいかと確認したら、約70人が50人になったのだという。それが激減かと思うのは、私だけだろうか。さらに言えば、その50人の子どもたちとその親の気持ちに思い致せない想像力のなさに、私は心底がっかりしている。(それに、この数年で少子化も進み、どのような形での登校もカウントされやすくなっているはすだ)旧来のしがらみの多い政治風土を変えようとする意気込みは理解する。しかし、65,000人程度の地方都市は、都道府県政や国政とは「しがらみ」の意味が違う。「市民の良識を信じる」というけれど、彼の言う市民には、中小企業の経営者や商店主たちは含まれてはいないようだ。長年、この町でそれなりに町を良くしようと頑張ってきた古い人たちも、しがらみのある人たちであるようだ。彼を支持するのは主に新住民たちと、市外の先駆的な行政を目指している首長さん達、そして、彼が大好きなエリートさんたちのようである。対抗馬として立候補した人も、現市長も、私はよく知っている。二人とも、それぞれよい人である。現市長への批判を少しだけ(これでも少しだけのつもりだ)書いたが、二人を嫌いなわけではない。現市長が自分のめざす町づくりに頑張ってきたことはわかっているし、その功績だって認めているが、私たち市民にとってのリーダーは、全国のトップランナーになろうとするよりも、今の私たちの課題を、地味なことでも着実に弱い立場の人の身になって考えてくれることを望む。自分の考えることは正しくて、反対する人たちは抵抗勢力とみなすのは、以前のどこかの首相と同じだろう。自分の信じることを推進しようとするなら、十分に誰にでもわかるように説明しなければならない。いくら「わけのわからん議員」と言っても、その議員を支持している市民がいるかぎり、馬鹿にせずにちゃんと説得する努力はすべきだ。このブログには、こんなことをできれば書きたくないと思っていた。さらに、私はいつも選挙では誰を支持するかをあいまいにするタイプだった。しかし、今回ばかりはもう黙ってはいられなくなってしまった。現市長は、十分にその役割を果たしてくれました。だから、次はもう少しバランスのとれた人にリーダーになってもらいたいと願っている。≪補足≫現市長に対しては、私の目は「節穴だった」とは思っていない。彼の傾向性はよくわかっていたので、4年前に市長選に立候補した時は「議員」あたりで頑張る方がいいのにと思った。だから、今の心境は「やっぱりこうなってしまった、残念だ」。対立候補者については、賛否はもちろんあると思うが、人柄や性格はバランスがとれていると思っている。今は、投票結果がとても怖いと感じている。なにせ、市民への知名度は現市長の方が圧倒的に高いですからね。