猫の思い出から・・
直木賞作家坂東氏の「子猫殺し」の話題は、少し落ち着いたのだろうか。それよりももっと悲惨な事件があれば、子猫の死などぶっ飛ばされるのが今の世情だろうから・・。彼女の行為は、フランスの刑法に触れる可能性があるということなので検索してみると、次の記事があった。「子猫殺し」直木賞作家 タヒチ刑法に抵触か J-CASTニュース 2006/8/28以下記事の一部をコピー 「子猫殺し」にはフランス刑法「art.R655-1」が適用されるという。これには、「むやみに、飼っているあるいは管理している動物を意志を持って殺害すると、762.25~1,524.5ユーロの罰金(再犯の場合は3,049ユーロまで)が課される」とある。「むやみに(必要なしに)」が該当すれば、あきらかに「違法」だ。また崖から突き落とす行為が「残虐行為」に該当すれば、「禁固2年と30,000ユーロの罰金」が該当し、さらに罪は重くなる。日本においては 日本の動物愛護管理法では「愛護動物をみだりに殺し又は傷つけた場合は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金」とある。「子猫殺し」にある行為が「みだりに」かは判断が分かれるが、環境省によれば、「生まれたら殺すを繰り返していれば、それは『みだり』が当てはまるかもしれない」という。ただし、これまでに「間引き」で動物を殺害したことが問題になった事例はなく、「あくまでも司法の判断」によるという。刑法で罰せられるかどうかは別にして、生きて動いている動物を崖から投げ落とすことができる人の気持ちは、私にはわからない。「自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した」という言葉も、私には全く共感できない。猫が発情し交尾し出産することは自然なことではあるが、その価値ばかりを大切して、その結果に対しては「殺し」か。それは、セックスの快楽を重視して妊娠し、中絶したり出産後に殺したりすることと同じではないか。こんなことを書くつもりではなかった。私が今日書こうと思ったのは、私と猫の思い出である。私が幼い頃には、実家が農家だったこともあつて、いつも猫がいた。私は、「農家だからねずみ退治のために猫を飼っていた」と思っていたが、「一家に猫一匹を飼いなさい」という国のお達しのために、日本中で猫を飼い始めたということは、二月に放送された「その時歴史が動いた 伝染病から日本を守れ ~細菌学者 北里柴三郎の闘い~」で始めて知った。ペスト菌を発見した北里柴三郎の提唱で「伝染病予防法」が施行され、ペストを媒介するネズミ駆除のために猫を飼うことが省令で奨励されたらしい。私の子どもの頃に、ペットとしてではなく各家庭に猫がいたのは、その名残だったのだろうか。まあ、少なくてもペストの危機は去っても、ネズミは農家にとっては敵だったから、猫は大事な働き手であったことは確かだ。我が家には番犬としての犬と、ネズミ捕り役の猫がいたが、小さい頃に野良犬に追いかけられてから、どうも犬は苦手となった。その分だけ、猫は私の大切な友達だった。近所に友達もいなかったし、妹は四歳年下で遊び相手とはならず、もともと外で遊びまわるような活発な子ではなかったから、家で猫とくっつきあっていることが多かった。猫はいつでも「野良猫」だったと思う。私以上に猫好きだった妹は、物心がついた頃からよく捨て猫を拾ってきた。だから、我が家にはいつも何匹もの猫がいた。必然的にメス猫は妊娠し子猫を産む。私は、猫が発情し、交尾し、出産し、子育てをする姿を、普通の光景として見ていた。初めて猫の交尾を認識したのは、小学生の頃。それまでも見ていたと思うが、ケンカして仲直りとでも思っていたのではなかろうか。二匹の猫が唸り声を上げて向き合い、やがてオス猫がガバッとメス猫に重なり、ジーッとしている姿を見ていた時、背後に来た祖母が、当たり前のように言った。「あれは、子どもを作ってるんだよ。猫も犬も、人だっておんなじだ・・」今考えても、すごいことを平然と祖母は言ったものだと思う。でも、昔の人はそのような形で性教育をするのが自然だったのかもしれない。子どもの私にはただ重なり合っているようにしか見えなかったけれど、やがて色々な知識がつながりあって、妊娠とはそういうことだと知ったような気がする。その後の猫の子育ても、私の心には深く刻まれている。母猫はいつも子猫を嘗め回し、排泄物もなめてきれいにする。子猫がチョロチョロ動き回るようになると、片時も目を離さずに、少し離れた子猫のところに走っていって、口にくわえて戻ってくる。やがて尻尾を振って子猫に飛びつかせる遊びを繰り返す。それは、ネズミを捕るための動きを体得させるための実習だ。やがて、自分で捕まえてきたネズミを子猫たちの前に放す。練習台とされるネズミは可哀想なものだが、子猫たちは一所懸命ネズミを捕まえようと追い掛け回す。しかし、体力も技術もない子猫たちから、すぐにネズミは逃げる。母猫はそれをサッと捕まえて、また子猫の前に放す。何度もそれを繰り返してから、いよいよ母猫はネズミにとどめをさし、子猫と一緒にネズミを食べるのだ。そうやって、多分子猫たちは、食事のマナーも学んでいたに違いない。当時の猫たちは、私たちの食事の残り物を与えられていた。彼らの本分である「ネズミ捕り」のための獲物は母屋の屋根裏、納屋、蔵にいくらでもいたから、それで十分だったのだろうと思う。猫に食べさせる食事に苦労することはなかったと思うが、それでも毎年毎年生まれる子猫の処分には、大人たちは苦労していたと思う。子猫が生まれると、まずは飼い主を探すのは今も昔も同じこと。当然、可愛い猫から引き取られていく。しかし、時には何匹か「メンコクナイ子猫」が残った。そんな時は、母が山に捨てに行っていた。私たち子どもは「可哀想だ」と多少は抵抗していたが、毎年繰り返されるうちに、それも仕方が無いことだと思うしかなかった。どのような場所に捨てに行っていたのか、私はわからない。私たちは「山に捨てた」と聞いていたが、それは私たち子どもへの配慮だったのかもしれない。ある時、母が「・・川に捨てた」と言うのを耳にしたことがある。ショックを感じはしたけれど、それも仕方が無いのかとも思ったような気もする。ひょっとするとあの直木賞作家の家でも、彼女が幼い頃毎年そのようなことが繰り返されていたのかもしれない。私は「メンコクナイ子だ」と母から言われることが多かった。無口で明るくない子どもだったからだろう。それに、少なくても「器量よし」ではなかったから、捨てられる子猫たちが自分と重なって、切ない気持ちになったこともある。時には、捨てられた猫が舞い戻ってきたこともある。本来は猫好きの母は、「あんなところからよく帰ってきた」と言い、そんな猫は再度捨てられることはなかった。私はといえば、そんなことをありありと覚えているのだから、きっとあれこれ心を痛めながら、そんな様子をじっと見ていたのだろう。自分が子育てをしていた頃、私はよくあの当時の母猫の姿を思い出していた。辛抱強く子猫のネズミ捕りの練習に尻尾を振っていた姿。子猫が遊びまわって危険だと感じるや否や、パッと飛んでいって子猫を連れ戻す姿。子猫がいなくなったとき、一所懸命探し回る姿。餌を持っていったときに、子猫が食べ終えるまでは自分は食べようとしなかった姿。どれもこれも、「母親のモデル」であった。申し訳ないが、いつも口うるさい自分の母親よりも、ずっと母親らしいと感じたのが母猫たちだった。人間の子育てと猫の子育てを同列にすることはできないが、猫たちから学んだことはとても多い。だからこそ私は、自分が大人になったときに動物を飼うことができなかったのかもしれない。町の住宅街に住む私は、猫を自由にさせることはできなかった。息子たちは犬を飼いたいと言ったけれど、共働きだった私は、十分な運動や相手をしてやれるとは思えなかった。猫にとっての幸せが何なのか、ずっと猫たちと一緒に育った私は少しはわかる。猫を自分の愛玩物にする気持ちにはなれないのだ。人間の勝手な都合で可愛がったり捨てたり殺したりなんて、本当に気分が悪い。地球上で一番罪深い動物は、人間であることに間違いは無い。